「それから数日後にまた、その紳士はやってきた。前のことが頭にあって、迷わずエアコンの前の席へと案内をしたんじゃ。するとな、『バカモン!』と怒られた。なぜじゃと思うかな」
「……」

「その日も確かに暑い日じゃったが、紳士は汗1つかいておらなんだ。なぜなら、ホテルの玄関までハイヤーで乗りつけたからじゃった。叱りつけられた後で、その紳士はまだ若造だったワシに教えてくれた……。『仕事とは気づき』じゃとな。『気づきをたくさんするためには、そうじをしなさい』と言われたのじゃ。それでワシはそうじを始めた。早く出勤して開店前のレストランを嘗めるようにそうじした」

「はい…」

「そのうち、何だかわからんがな…、今まで見えなかったものが見えてくるようになったんじゃ。お前さんの好きな理屈で言うとこういうことじゃ。そうじというのは、汚い所をキレイにするということじゃ。まず、汚い所を探すことが習慣になる。ウエイターの仕事をしていても、四六時中、フロアに何かゴミが落ちていないか気遣うようになったんだな。そのおかげで、お客様の忘れ物や落し物を何度見つけたことか。お客様が店を出る寸前に声をかけて渡すと、非常に感謝された。そして、もちろん、さっきのような過ちはせんようになった。お客様が何を欲しておられるか、何を望んでおられるか、声をかけられる前に『考えて気づく』というクセが身についたんじゃ。もちろん、何年も、何年もかかったな、これには…」

 老人が若かりし頃、「ホテルマン」であったらしいことを初めて知った。そして、その言葉には重みがあった。老人の言わんとしていることが、圭介には心の奥までストンと飲み込めた気がした。

「そうじをすると売上が上がるのか」。もちろん、すぐに売上が上がるわけではない。

 そうじをする。そうじをすると、汚い所に気づくようになる。その「気づき」は、日頃の仕事の気づきにも生かされる。すると、お客様が自分のファンになってくれる。仕事が増える。これが会社全体で行われれば、会社の売上が上がることになる。「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざと同じである。

 老人は、ここまでしゃべると時計をチラリと見て、圭介の後ろに視線を移した。知らぬ間に、グレーのスーツの背の高い男性が立っていた。その男が言った。

「会長、お時間でございます。少し急がれませんと」
「うむ、わかっとる。ちょっと余計なことを喋り過ぎたかな…」

 ポカンとしている圭介を尻目に、老人は「元気でな」と一言残して、男性とともに通りへと歩いていった。そして、ふと気がついたように10メートルほど歩いたところで老人が振り返った。

「おぉ、そうだ。1つ言い忘れておった。忠告しておくがな、実は、そういうわけで、そうじをすると売上が上がるんじゃよ。だがな、問題はそこにある。『売上が上がるから拾おうとか、お金が手に入るから拾おう』と思ったとたん、売上が上がらなくなる。これがまた不思議でな。このカラクリは、ワシもいまだにわからん。ワッハハハ」

 そして再び、老人は、遠ざかっていった。一瞬、呆然としたところから我に返った、圭介は慌てて2人を追いかけた。

 木立の向こうに停まっていた「黒塗りのベンツ」の後部座席に、会長と呼ばれた老人が乗り込むのが見えた。まもなく車は動き出し、ビルの谷間へと消えていった。