幸一は、岩本社長から提案された件を父に話した。少々長い話になったが、父は話の腰を折ることなく、時折ビールを口に運ぶだけで、幸一の言葉が途切れるのを待っている。
「……どう思う?」
「お前は、中国ビジネスの経験がないから不安だと言ったが、だいたい3年前に今の仕事を始めたときには、商売の経験も、木材の知識も、何もなかったじゃないか。それを悩む理由にするのは、単なる思い上がりだな」
抑揚の無い話し方でさらりとひと刺しするのは、相変わらずだ。
「しかし、中国との貿易で騙されたとか、投資した会社を乗っ取られたとか、あんまりいい話を聞かないからね」
「そんなことは社長が心配すること、経営者が責任を負うものさ。お前はまだ若いんだ、無責任でいいのさ。給料をもらいながら、会社の金を遣って他の人にはなかなか経験できないことをやらせてもらえる。幸運だと、素直に思うくらいで丁度いい。だいたい会社なんてものは、大部分が無責任か無神経の人間で構成されているんだ。それを、経営者が胃を痛めながら統率する、だからこそ、高い報酬と権力という見返りを与えられているんだがね」
幸一は素直に父の話に耳を傾け、そして単純な質問を発した。
「親父の会社は、中国との仕事は多いの?」
「この10年で状況が一変したな。今じゃ投資した会社は100を超えるし、懸案中のプロジェクトなんて数え切れないほどある。日本のショッピングセンターを覗いてみろ、食品から衣類までメイド・イン・チャイナばかりだよ。否応なしに、今の日本は中国抜きでは消費生活が成り立たなくなっている」
幸一は腕組みをして考え込んだ。
「それじゃあ親父は、俺は中国へ行ったほうがいいと思うのかい?」
「別にそうは言っていない。決めるのはお前自身さ。今の選択肢は二つだけなんだろう? 中国へ行くか、シンガポールかマレーシアで別の仕事を探すか……。いまさら日本へ戻ることは、考えていないんだろう?」
「まあね」幸一は父から視線を逸らし、箸先で煮物をつつく素振りをした。
「とにかく、お前が自分で決めた道だったら、私の職権を使ってでも、出来る限りのバックアップをしてやるよ」
「いいよ、そんなもん。一流商社の役員さんが、見苦しいことはしないでほしいな」
「馬鹿野郎、それが父親ってもんさ」
言葉とは裏腹に淡々とした口振りを保つ父を、幸一は黙って見詰めた。
食事を終えてレストランを出た二人は、エスカレーターへ向かって歩いていた。
「二人だけで食事をして帰ったなんて知ったら、母さんは怒るだろうな」
「ああ、だから黙っててくれよ、幸一。お前も俺も、別々に仕事の付き合いで食事をして帰ったということにしておいてくれ」
笑いながら先を進む幸一の背中に、父が問い掛けた。
「もう大丈夫……なんだな?」
父が何を言いたいのか察した幸一が答える。
「大丈夫、もう昔のことさ」
(つづく)