バブルに酔う日本人、不安や不満などとは無縁の、今この時の日本人。それに較べて、中国は大変な苦境に立たされていた。

 当時、最大の懸念はインフレであった。一つの商品に、共産国家の象徴ともいえる公定価格と、自由経済の基本である市場価格という二つの価格が存在して、庶民を困惑させていた。経済改革という試行錯誤を繰り返す中で、これは避けては通れない道であったのだろうが、問題は、その価格差に目を付けて濡れ手で粟の利益を貪る人間たちが増殖し、腐敗が蔓延していることだった。

 もちろんその主役たちは政府関係者であると庶民に見破られていた。インフレで国民が明日の食にも不安を抱き、銀行の取り付け騒ぎまで惹起されると、不満の矛先は政府へ向けられるようになった。巷間の怨嗟の声という後押しを受けた学生運動に対して、政府側も弾圧には及び腰になっている。

 秦を滅亡に導いた陳勝・呉広の乱、後漢末期の黄巾の乱、そして清朝を衰退させた太平天国の乱など、庶民の中から起きた反乱こそが国家を覆す転機となることを知っていたので、政府は学生たちに対して今は寛容な態度で臨んでいる。しかし、それもいつまで続くか判らない。

 庶民の不満が爆発するのが先か、それとも、政府の堪忍袋の緒が切れるのが先か、この国は危険な険道に足を踏み入れていた。

「自分が根を張っている社会を少しでも良くしたいと思うのは当然でしょう? それを避けていては、自分自身が幸せになれないわ」

 立芳が優しい口調で隆嗣を諭す。そんな彼女の澄んだ瞳を凝視した彼は、衝動を抑えかねて唐突に彼女へ懇願した。

「立芳、日本へ来てくれ。君の目で日本という国を確かめてほしい……。大学を出たら、僕と一緒に日本で暮らそう。必ず幸せにする」

 彼女には危険地帯に足を踏み入れている意識などない。当たり前のことを考え、当然の行動をしている、純粋な人間なのだ。

 だからこそ、隆嗣は彼女に惹かれた。この女神を無条件で信仰している彼は、改めて自分に言い聞かせた。自分こそが、彼女を守り通さなければならない。理想や社会正義などに身を委ねる自信はないが、彼女と一緒に存在する限り、自分は救われると確信していた。

 繰り返し幾度も誓ってくれたセリフを、みんなが見ている前で言わなくてもいいのにと、立芳は恥ずかしさで俯いた。

 李傑は驚きで息を呑み、祝平は静かに頷いている。建平が大声で言い放った。

「結婚式は中国でやってくれよ。俺たちは日本まで出向くことはできないからね」

 俯いた立芳の頬が赤く染まり、そしてかすかに緩んだ。

(つづく)