従来のフェミニズムとは
違った角度から女性を解放

 そして、意識しているか無意識のうちなのかは関係なく、その「新しさ」を感じ取っている人たちがいる。だからフォロワーが増えているのだし、彼女に追従するエピゴーネン女子高生や女子大生が登場する。暇女本人はそのあたりのことは自覚的のようだ。炎上しやすいツイートを重ねながら、ネットでは好意的に受け入れられている現状に対して、取材ではこのように語っている。


従来から性に関しては一般的に「男性が女性を抱く」「男性が女性をやり捨てる」と男性優位だったと思いますが、私はちんぽを選び、ちんぽを選別しているので、その新しい構造が新鮮で好意的に受け止められているのではないでしょうか。


 やはり、暇女ツイートは階級闘争だったのである。この新しさは従来のフェミニズムとはまったく違うところから、女性の新しい地平を切り開く。アメリカの社会学者、批評家でアンチ・フェミニズム・フェミニストとして知られるカミール・パーリアの「マドンナ論」のように。マドンナはデビュー以来、時にはセクシーを超えた卑猥とも言えるパフォーマンスを繰り広げ、フェミニストたちから激しく非難された。つまり、「マドンナはポルノを肯定する女の敵」というわけだが、これにカミールは激しく反論。ニューヨーク・タイムズにこのような文章を載せた。

「マドンナこそ真のフェミニストだ。これまでアメリカのフェミニズムは禁欲的で厳格なイデオロギーに縛られ、大人げなく、すぐにめそめそ泣くばかりだったが、マドンナはそんな青臭さを笑い飛ばした。マドンナは若い女性たちに女らしくセクシーでありながら、自分の生き方をコントロールできることを教えたのだ」

 もっとも、禁欲的で厳格なイデオロギーに縛られていたのは、アメリカのフェミニズムだけではない。日本のフェミニズムも同じだっただろう。しかし、正面切って男を敵視するよりも、男受けを装って相手を捕食するほうが、女性としてしたたかだ。暇女的なる闘争は、このようなしたたかさを内包している。その意味で、従来のフェミニズムとは違った角度から女性を解放する。

 考えてみれば、自由奔放な性の解放は、昔から極めて政治的なものだった。60年代のフラワー・ムーブメントにおいて、政治的リベラルとフリーセックスがほとんどセットで論じられていたように。ほとんどの社会において、セックスは大きなタブーのひとつであるから、そのタブーを破ることが政治的な意味合いを持つことも当然ではあるし、社会の価値観を紊乱することにもつながる。暇女ツイートは日本社会の性の価値観を大きく紊乱しているが、だからこそ彼女はトリックスターであり、新しい構造を体現し、社会を変える触媒になる可能性を持つのである。

 繰り返すが、暇女が本当に実在するのか、本当に女子大生なのかを確かめる術はない。しかし、重要なことは彼女が実在するかどうかではなく、ネットの中に確かに存在していて、エピゴーネンを含むフォロワーをどんどん増やしているという事実だ。これは、現代日本の社会に生じたほんの小さな歪みでしかないが、その歪みが拡がり社会を変容させるのか。あるいは一過性の(しかも一部の)ちょっと変わった話題で終わるのか。いまのところは読み切れない。しかし、だからこそ、その推移を注視していきたいと思う。もしかしたら、時代の転換点を目の当たりにできるかもしれないのだから。

*「暇な女子大生」のツイッターアカウント @bored_jd