フローリングを踏みしめながら彼の元へ一歩ずつ近付いていく隆嗣の背中へ、王紅が声を掛けた。

「飲み物をお持ちしますわ。何がよろしいかしら?」

「建平と同じもので」

 振り返って答えた隆嗣の顔に微かな笑みを認めた彼女は、安堵した。

 開かれたガラス戸の前で向き合う二人の男。その先に見えるベランダもリビングに劣らず広く、雨に強いチークのデッキが敷かれていた。4月のさわやかな風が海から吹いてくる。下界を見下ろすと、湾沿いに広がる港町らしいカーブを描いた明かりの点滅が見えた。

 隆嗣は、故郷長崎の稲佐山からの夜景を思い出した。父はどうしているだろう。齢70を越えて母に先立たれ一人暮らしを続けているが、おそらく唯一の生き甲斐である『原爆を語り継ぐ』ボランティアを続けていることだろう。

 他県へ嫁いだ妹が時折電話してきて、たまには帰国して父へ顔を見せろと説教されていた。父の老いを心配する娘の声を聞かされても、息子は父の老いを認めたくないものだ。

 なぜ父のことを思い出してしまったんだろう。この夜景のせいだろうか。隆嗣は無意識に首を振った。

「見てくれよ、この素晴らしい夜景を」

 建平の声が隆嗣を呼び起こす。彼の声音には、青島の夜景を自慢する意思も、マンション最上階を独占している生活に奢っている気持ちも感じられなかった。自嘲している。

「ここからのまばゆい夜景を見るたびに、魯迅公園で君が語ってくれた話を思い出すんだ」

 そうか、父を思い出したのはそのためだったのだ。民主化運動の学生たちの前で建平に指名され、日本の学生運動の歴史と成熟し過ぎた日本社会への反感を若さに任せた生半可な知識で語ったんだ。その時、脳裏に描いていたのは、寡黙で愚直な父の姿だった。

 風が欲しいのか、ベランダに続くガラス戸を開け放ったままで、建平は隆嗣の肩を叩いて室内へと誘った。ガラステーブルを挟んでソファに深く腰掛けた二人は、改めて互いの顔を見詰め合った。