「平成しぐさ」が蔓延する現代日本
世の中には、さまざまな“常識”がある。コミュニケーションや社会システムが複雑化した現在においては、よりその内容が細分化し、日常生活のルールとして浸透している。
デジタル大辞泉によると、常識とは「一般の社会人が共通に持つ、また持つべき普通の知識・意見や判断力」という意味なのだそうだ。補足説明に「common senseの訳語として明治時代から普及した」とあるのが面白い。それ以前は、どのような言葉で言い表されていたのか、もしくは“常識”という概念すらなかったのか、寡聞にして知らない。
ところが、現在においては、「一般の社会人」が「共通」した常識を持つことが難しくなっている。人々の間で微妙に食い違う常識に対する考え方は、しばしばSNS上で可視化され、論争の種になる。“常識”が炎上の種になるのだから、日本人の常識観も大したものである。そもそも「一般の社会人」「普通の知識・意見や判断力」なるものが存在するのかも疑わしい。
しかし、この連載で、そんな難しい話をするつもりはない。要は、それぞれがそれぞれの常識を生きていて、ときにそれが論争になるということを言いたかっただけだ。難しい話をしようとしているどころか、最も身近で、最もどうでもいいことについて話そうとしている。
たとえば、少し前にネット上で「“焼き鳥の串”論争」 なるものがあったことは記憶に新しい。串1本を巡って騒ぎ過ぎの感があるものの、現役店主の問題提起から始まったこの論争は、「串から外したほうが周りにも親切」という何となくの常識を疑う機会になった。