「傍観者自身に取り立てての歴史はない。舞台にいるが演じてはいない。観客でもない。少なくとも観客は芝居の命運を左右する。傍観者は何も変えない。しかし、役者や観客とは違うものを見る。違う見方で見る」(ドラッカー名著集(12)『傍観者の時代』)
ドラッカーが、自分は傍観者であることに気づいたのは、1923年11月11日のことだった。
その日は、18年にオーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦に破れ、共和制が宣言された日、「共和国の日」だった。戦争に負けた日ではあったが、社会主義者の国となっていたオーストリア共和国では、勝利の日だった。
共和制施行5周年のその日、09年生まれのドラッカーは、わずか13歳で、頼まれてパレードの先頭を行進していた。ハプスブルク家の優雅な都から、右派と左派の市街戦に明け暮れる労働者の街へと変貌したウィーンの大通りを、赤旗を掲げ、労働歌を歌いながら、労働者と学生たちの先頭を行進したのだった。
しかし、市庁舎前広場の近くまで来たとき、ちょうど行く手には前夜の雨でできた水たまりが大きく広がっていた。いつもならば、わざわざ入ってみたくなってしまうような水たまりだった。だが、自分で意図して足を踏み入れるのではなく、後ろから背中を押される格好で、そこに入っていかなければならなかった。
水たまりを通り抜けたとき、彼は手にしていた赤旗を、傍らにいた青年社会主義同盟のオルグ、口ひげのうっすらと生えた女子医学生に渡して隊列を離れた。
17歳でウィーンを離れてハンブルク、19歳でフランクフルト、23歳でロンドン、27歳でニューヨークと遍歴し、第一次世界大戦が終わってちょうど87年、自らが傍観者であることを知ってから82年後の2005年11月11日、現代社会最高の哲人とされ、マネジメントの発明者とされた人が逝った。確かに彼は、傍観者として、実業家にも、官僚にも、政治家にもなることがなかった。
「家に着いたとき、早い帰宅をいぶかった母が、具合でも悪いの、と聞いた。最高だよ。僕のいる所ではないってわかったんだ、と答えた。11月のあの寒い日にわかったことは自分は傍観者だということだった」(『傍観者の時代』)