「言葉狩り」を一掃するためにも、
「ぶら下がり取材」は止めよう

 OECDのレポート(OECD at a glance 2011 (Figure II.2.))によると、「政府の信頼度」と「国をリードする政治家の能力」との間には、明確な相関関係が見られると言う。わが国ではこのどちらもが、OECD諸国等の中では、最低に近い水準である。これは、極論すれば、民主主義の危機である。新聞は民主主義を守るために、社会を成熟させ、こうした危機を回避する社会的責任を負っているのではないか。いたずらに、権力(≒政府)を批判することだけが、新聞の責務ではあるまい。

 たとえば、最近の事例では、鉢呂前経産相の「死の町」発言を取り上げた一連の記事がいささか気になった。「政治家は言葉がすべてである」、あくまでそれを前提とした上での話ではあるが、この言葉が具体的な記者とのやり取りの中で、どういう文脈で発せられたものであるかが、今一つ明らかにはされなかったように思われたからである。

 鉢呂前経産相を弁護する気持ちは毛頭ないし、表現自体は軽率の誹りを免れないと思うが、「死の町」という言葉だけが一人歩きし、まるで鬼の首でも取ったかのような「言葉狩り」の横行に違和感を覚えたのは筆者だけだろうか。

 こうした一つの言葉に強く反応する風潮は、いわゆる「ぶら下がり取材」がもたらした弊害ではないかと考える。「ぶら下がり取材」は、小泉元首相の頃から一般化したといわれているが、毎日1、2回、総理が記者からの質問に立ち止まって応える取材形式であって、他の大臣や要人に対しても行われているようだ。

 野田首相が「ぶら下がり取材」に応じていないことを、新聞をはじめとするメディアはこぞって非難しているが、野田首相はこれに対して、9月28日の参院予算委員会で「しっかりと時間を取って丁寧に受け答えをするやり方をある程度の頻度を持ってやりたい」と、「ぶら下がり取材」から会見に切り替える意向を示した。

 これはまったくの正論ではないか。移動中のごく短い時間に、一問一答のような形で行われていた「ぶら下がり取材」が、たとえば市民の知る権利とどのような関係があるのか、さっぱり合点がいかない。一部特定の記者だけが要人を囲んで特権的に一問一答を強要し(しかも一問の方は報道されるケースが少ない)、要人のワンフレーズだけを競って報道するようなシステムが、はたして健全な民主主義を育てるのだろうか。まさか、要人の条件反射力を報道したいのではあるまい。