
現代では東京でも指折りの繁華街である新宿も、戦後は焼け野原だった。そこにはいくつもの闇市が立てられ、敗戦政府が国民の面倒をみる余裕がない時期の物資や食料流通の場として、多くの人々を引き付けていた。終戦の玉音放送から間もない8月20日に、この巨大インフラをオープンにこぎつけた男のビジネス嗅覚を追う。※本稿は、フリート横田『新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史』の一部を抜粋・編集したものです。
戦後、焼け野原となった新宿に
新宿マーケットなる闇市を作った男
敗亡国家の新興繁華街・新宿は、終戦の日、8割を焼失していた(注1)。罹災者はおよそ22万人。あらゆる物資の欠乏は極限に達して新宿御苑の庭園も芋や南瓜の畑と化し、強制疎開と無差別空襲によって、駅周辺は真夏の日差しにあぶられる瓦礫と虚無が広がるばかりだった。
だがこの日、尾津(編集部注/尾津喜之助のこと。新宿を作った男と言われる昭和期の露天商、関東尾津組組長)は、「持っていた」。
現金数十万円、大量の商品、新聞広告を打ったり、どこかに眠るストック品を仕入れ闇で売り抜けるノウハウ、一気呵成に動く子分という人的リソース、連携できる兄弟分という組織力、軍需工場との取引ルート、痩せたとはいえ肩幅広く、この時代としては大柄な47歳の男の、気力と体力を。
そして懐手したまま腕組みした着流しの奥には、ここ数年闇で大きな儲けを出した後ろめたさと、「苛烈な道徳心」と、溢れんばかりの自己顕示欲もおさめられていた。
(注1)『新宿区史』(昭和30年)