「犠牲的な精神で2年間、カップ戦のスポンサーをやってくれてね」とねぎらいつつ、「さあこれからプロ化で盛り上がろうって時にやめさせてほしいということで、非常に残念でした。ただ、取締役会で反対されたっていう話だったので、どうしようもなかったようです」と話す。

 こうした事情があって、大会スポンサーを急遽、見つける必要が出てきた。そんな時に手を挙げたのが、ヤマザキビスケット(旧ヤマザキナビスコ)の飯島茂彰社長だった。

 スポンサー探しを博報堂に依頼していた川淵は、飯島のことを「救世主」と表現する。

「協賛金だって相当な額だと思いますし、成功するかどうか分からないっていうJリーグのカップ戦に提供していただいたんだからね」(川淵)

「感謝以外の気持ちはない」と話す川淵。意外だったとの感情が込められた「ホントによく決めていただいた」との言葉が、自らが主導するJリーグの成否が全く読めない当時の空気を今に伝えていた。

 J1、J2、J3合わせて54クラブにまで拡大した現在のJリーグの成功は今ならば明らかだが、当時、こうした隆盛を正確に予測するのは不可能だった。海の物とも山の物ともつかないJリーグに対し、飯島はなぜスポンサードする決断を下せたのか。