箸でつまむとふわりと匂い立つ香り
完成度をとことん追求した十割蕎麦がある
広告代理店のクリエイティブ畑で第一線を走り続けてきた亭主の宮下さん。1948年生まれ、団塊のトップバッターでいつも競争にさらされてきた宮下さんは、57歳で蕎麦屋へと転身した。
その時に決めたのが、「無理をしない、疲れたら休もう」という生き方。それ以来、“ガンバラナイ”が宮下さんのキーワードだ。「紫仙庵」が、闘うことに疲れた戦士たちにとって、ひと時の憩いの場になってくれればいいという。
宮下さんが打つ蕎麦はまじりっけ無しの十割。その繊細な手から生み出された蕎麦の麺体は、切り口がシャープで一目で客の心を射止めてしまう。ひとつまみを箸で拾って、鼻に近づけるとふわりと蕎麦の匂いが立つ。完成度をとことん追求した蕎麦だ。
できるなら、この季節は温もり蕎麦にもトライしてみたい。
大きな湯桶にたっぷりと湯が張られ十割蕎麦がふわり浮かんでいる。つゆはせいろより辛めのもので作られていて、最後まで味が薄くならずに平らげられる。体が芯から温まる。
蕎麦は10月から暮れまでは北海道、年末からは福井、春先からは水府の常陸秋蕎麦など、景色や味わいの違う蕎麦を用意してある。
平日の夜は都心のビジネスマンの会食や接待が多いという。かつては陶芸家を目指そうとした時もあった宮下さんが選ぶ器や調度品は目の肥えた訪問客の鑑賞眼を満足させる。
前職時代に全国を仕事で回り、評判の蕎麦屋を覗き、よい料理屋に招かれた。人伝に地域の優れた食材を見て回り、メモ帳にしたためた。その成果が今、「紫仙庵」の御膳に輝いている。漆黒の盆に心尽くしの前菜が美しく並ぶ。
シンプルに見える前菜だが、各地の名産の食材を調理して、味付けに工夫し、これが「紫仙庵」の趣向だと唸らせる。蛸の磯煮は柔らかで、蛸の肉に旨みが入り込んでいる。さっぱりとした牛蒡の紫蘇巻きはしばしの箸休めで辛口の酒を誘う。