結果的には、夢だった慶応大学への進学は果たせなかった。だが武蔵大学に進学後、投手に専念してから、野球の才能が開花したのだ。当時、二部リーグだったとはいえ、首都大学野球連盟記録を塗り替える通算37勝をマークするなど主戦として活躍。その投球がプロ関係者の目に留まり2000年のドラフトで巨人から7位指名を受けた。しかし一軍の登板がないまま2年で戦力外となると、翌年にはイタリアに新天地を求めている。

西武伊東監督に投げ込んだ
全球内角シュートで入団が決まる

「巨人をクビになった時は他の国の球団からも声がかかりましたけど、行くならとにかく先進国に行きたくてイタリアを選びました(笑)。イタリア代表のキャッチャーにボールを受けてもらった時、日本では欠点だと言われていたシュート回転するボールが、試合で使えることを教えてもらったのは大きかったですね。自信をつけて、その年のオフに日本のプロ野球12球団に、ホームページで連絡先を調べて『俺をテストしてくれ!』って自分で連絡しました」

 イタリアで自分の武器を見つけた小野は、帰国後に西武のテストを受けられることになった。

「テストの時に当時の伊東監督が突然打席に入られたんですよ。僕の武器はイタリアで見つけた打者の内角をえぐるシュートですから、テストで監督さんに万が一当ててしまったらまずいじゃないですか?だから外角を狙って投げようかなとも思ったんですが、ここで自分の持ち味を出さなければ一生後悔すると思って、『当ててもいいや!』って開き直って全部内角にシュートを投げたんですよ。すると監督が僕の度胸を買ってくれて、『こいつは面白いから獲ろう!』ってフロントの方に話してくれたそうなんです」

 このテストには後日談がある。

「あとから聞いた話ですけど、本当は形式的なテストだけで獲得するつもりはなかったそうなんです(笑)」

 リスクを恐れず、自分の武器をアピールしたことで小野は自分の運命を変えた。自ら掴み取った日本球界の復帰だった。

 西武での1年目は主に敗戦処理だったが一軍でも起用され、日本一の証、優勝リングも手に入れることができた。しかし2年目は1軍での登板がなく、さらにその翌年の2006年には1軍の登板は1試合だけ。この年のオフ、人生2度目のクビ宣告を受けた小野はプロ野球の世界に別れを告げた。