マスコミ界のスターが
堂々と優生学を主張していた

 子どもに負わされた責任とはどういうものかというと、ここで選ばれた「健康児」たちは当初、「丁年(20歳)」になるまで経過観察をされるという試みだったのだ。「時代」と言ってしまえばそれまでだが、「健康優良児」は単なる全国一斉小学生スポーツテストではなく、もともとは「富国強兵」や「優生学」という考えに基づいた「調査」の側面もあったのである。

 朝日新聞を擁護するわけではないが、これは当時としてはおかしな考え方ではなく、特に世界情勢を知るインテリの間では珍しいものではなかった。「健康優良児表彰」に関わっていた下村氏も、もともと台湾総督府民政長官などをつとめた国際派。1921年に朝日新聞に入社してからは専務取締役、副社長を歴任して経営改革に携わる一方で、ラジオ出演をしたり、全国を回って「日本民族の将来」という題目で講演を行い、国際情勢、そして日本の「危機」について触れ回った。今でいえば、池上彰氏のようなスターだった。

 では、下村氏のような当時のインテリはどんなことを大衆に説いてまわったのか。「健康児優良児表彰」が始まった3年後、1933年に児童養護協会が出した「児童を護る」の中で、下村氏はこう主張している。

「私は今日日本の国策の基本はどこに置くかといへば、日本の人種改良だらうと思ひます。この點から見ますると、どうも日本の人種改良といふ運動はまだ極めて微々たるものである。それでは一體その他の改良といふことは日本ではやらんのかといへば、人種改良の方は存外無関心であるが、馬匹改良はやつて居る。豚もだんだん良い豚にする。牛も良い牛にする。牛乳の余計出る乳牛を仕入れる」(p8)

 このように、国民優生法ができるほんの7年前、当時のマスコミや文化人は日本の「危機」を克服するために、「日本人の改良」の必要性を説いていたのである。

 下村氏はこの後、朝日新聞を退社。貴族院議員となって活動するかたわら、「大日本体育協会」の会長や、「財団法人 日本文化中央聯盟」という団体の理事を経て、1943年には日本放送協会(後のNHK)の会長になった。そして、終戦直後には国民の啓蒙・思想取り締まりを行う内閣情報局の総裁となり、「玉音放送」の実現にも関わっている。

 彼が力を入れた「健康優良児表彰」は戦後も続き、優生保護法が成立した翌年の「朝日新聞」(1949年7月25日)でも華々しく募集がなされている。