創業以来、13期連続で増収増益を達成しているエス・エム・エス。「高齢社会に適した情報インフラを構築することで価値を創造し社会に貢献し続ける」というミッションのもとに同社を立ち上げた諸藤周平さんですが、右肩上がりの成長を続ける中、2014年に代表を退任し、アジアにおける新たな産業の創造をテーマとしたREAPRAを創業しています。東南アジアを中心に、次々と複数の事業領域の開拓を進めている諸藤さんに、エス・エム・エスの創業秘話、REAPRAでの活動についてお話を伺いました。(ライター:福田滉平)
大企業の倒産が怖くて起業
1977年生まれ。九州大学経済学部卒業。
株式会社エス・エム・エス(東証一部上場)の創業者であり、11年間にわたり代表取締役社長として同社の東証一部上場、アジア展開など成長を牽引。同社退任後、2015年より、シンガポールにてPEAPRA PTE.LTD.を創業。アジアを中心に、数多くのビジネスをみずから立ち上げる事業グループを形成すると同時に、ベンチャーキャピタルとして投資活動もおこなう。個人としても創業フェーズの企業に投資し多くの起業家を支援している。
朝倉祐介(シニフィアン共同代表。以下、朝倉):起業を考え始めたきっかけは大学時代と伺いました。諸藤さんは、どんな大学生だったのでしょうか?
諸藤周平氏(以下、諸藤):社会と向き合っていない、怠惰な大学生です。九州大学に入って、卒業後は大企業の福岡支店で、ゆっくり生きてければと思っていました。
そうしていたら、バブルの崩壊後に、大企業が次々と倒産しました。そもそも、大企業が潰れるという価値観を知らなかったので、山一證券などが潰れたのを見た時に、大企業でも倒産するということがあるんだ、と知ったんです。
もともと、出世する気もないし、できないと思っていたので、頑張らないまま万一大企業に入って、仮にその企業が倒産したら、相当やばいんじゃなないか。そう思って、大企業に入る不安を抑えきれなくなって、起業しようと決意した。後ろ向きの動機です。
朝倉:世間一般的に言うと、起業のほうを怖いと思いそうなものですが。
諸藤:起業が怖くなかったかというと、怖かったと思います。ただ、大企業に行って40歳になっても、大企業で働く不安は消えないだろう、という考えが頭にありました。
そこで、イチかバチかで起業しようと。ベストシナリオは、35歳までに3億円を稼いでハワイに移住。セカンドシナリオが、5000万円貯めたら山中湖とかでペンションを始めてキャシュフローで生きていく。それも叶わなければ、中小企業で働こうと考えていたんです。
朝倉:ものすごく具体的で明確なゴールイメージをお持ちだったわけですね。しかし、いきなりは起業せずに、最初はキーエンスに就職されます。
諸藤:自分は田舎の大学生で、起業といってもよく分からなかったこともありますし、そもそもだらしない性格を直したいという思いと、高収益企業のノウハウが何かあるのではないかと考え、キーエンスに入りました。
入った当初は、だらしない性格を直してもらえればというレベルなので、半年の研修も全然頑張っていませんでしたね。特に学び取ろうという姿勢もなかったんです。
ただ、小さい頃から、世の中は圧倒的に複雑にできているはずだと思っていました。複雑なものを複雑に体現しているビジネスには、小学生のころから興味がありました。そうした観点から組織や企業を見ていたので、キーエンスでの経験も事後的に役に立ったかなと思うものはあります。
朝倉:キーエンスを退職してすぐに起業されたわけではなく、その後、マンションの企画・開発を手掛けるゴールドクレストに移られていますね。
諸藤:キーエンスには、1年半くらい勤めました。キーエンスはシステマチックで、意外と居心地が良かったんです。一生ひとつの会社で働きたいとは思わなかったですけど、いじめられる感じもなく、快適に過ごせたんですね。ある程度時間もあったのに、起業の準備もしていませんでした。
でも、このまま一生懸命働いても意味がないなと思っていたので、退路を断つ意味で、転職を考えました。起業のアイデアは学生時代から高齢者向け不動産関連で持っていたのですが、準備はしていなかった。だからまずは不動産に関連する会社で、なおかつ少数だから全体を見渡せるんじゃないかという理由で、ゴールドクレストという会社の管理部門に行けるなら行かせて下さい、と転職しました。