鉄工所なのに、「量産ものはやらない」「ルーティン作業はやらない」「職人はつくらない」!
なのに、ここ10年、売上、社員数、取引社数、すべて右肩上がり。
そんな会社をご存じだろうか?
その名は、「HILLTOP株式会社」。京都府宇治市に本社がある。
今、この会社に、全国から入社希望者が殺到しているという。
その謎を解きに、記者は現地に飛んだ。
京都駅から近鉄・大久保駅で下車。タクシーで本社まで約5分。車を降り、本社を見上げた瞬間、度肝を抜かれた。
「ぴ、ピンク?こんな社屋、見たことない!」
とても鉄工所に思えない。
以前は、油まみれの“見るも無残な”鉄工所だったが、今や、宇宙・ロボット、医療・バイオの部品まで手がける「24時間無人加工の夢工場」へ変身。取引先はディズニー、NASAから一部上場のスーパーゼネコンまで今年度末に3000社超。社員食堂・浴室・筋トレルームがあり、「利益率20%を超えるIT鉄工所」とテレビで紹介され、年間2000人超が本社見学に訪れるという。
そして、最も注目されているのは、山本昌作代表取締役副社長の生産性追求と監視・管理型の指導を徹底排除した「人材育成」。「ものづくりの前に人づくり」「利益より人の成長を追いかける」「社員のモチベーションが自動的に上がる5%理論」を実践。入社半年の社員でも、ディズニーやNASAのプログラムが組めるしくみや、新しいこと・面白いことにチャレンジできる風土で、やる気あふれる社員が続出。
しかも、この経営者、鉄工所の火事で瀕死の大やけどを負い、1ヵ月間意識を喪失。3度の臨死体験。売上の8割の大量生産を捨て、味噌も買えない極貧生活をしたというから、まさに、個人も会社もどん底からのV字回復だ。
この20年、数々のカリスマ経営者を取材し続けてきた記者も、こんな面白い会社は見たことがない。
今回、7月19日に、初の著書『ディズニー、NASAが認めた 遊ぶ鉄工所』を刊行したばかりの山本昌作氏を直撃。人が採れない時代に、なぜ、京都の鉄工所が世界最先端のVIP企業から重宝され、日本中、いや世界中から入社希望者と見学者が殺到しているのか?
社員がイキイキ働きながら、がっちり儲かっている秘密を、HILLTOPの山本昌作副社長に語っていただこう。
(構成:寺田庸二)
一生分泣いた生涯忘れられない瞬間
2003年12月22日の工場火災で、私は瀕死の重傷を負いました。
顔、両手、両足すべてが焼け、包帯で全身を覆われ、ミイラのようでした。
入院後7日ぐらいは元気でしたが、気道熱傷やガス吸引による肺炎・肺水腫から呼吸困難になり、危篤状態に。喉を切り開いて、人口呼吸器を取りつけました。
焼け消えた皮膚は雑菌の温床となり、体中をむしばみました。
自由落下の点滴では体に入らず、1日6リットルの生理食塩水と栄養、抗生物質をポンプ付きの点滴で押し入れていました。
40度の熱が1ヵ月続き、氷漬けになった私は、まさに死人と同じでした。
医師は、「絶対に助からない」と思っていたようです。
危篤状態に陥ってからの1ヵ月間、私は意識不明のままでしたが、それでも「3度」、不思議な映像を目にしています。
臨死体験のようなものだったのかもしれません。
1度目と2度目はまったく同じ光景でした。
「真っ暗闇の中を真っ白な道が1本、どこまでも続いている。
私はその道をひたすら歩いている。
そして、自分の後ろ姿に向かって、私自身が『そのまま行くのは、まずいんやないか』と声をかける」
しかし、3度目は、まったく違いました。
人でも動物でもない影のような物体が私に近づいて、私はとうとうきたかと覚悟しました。
でもそのとき、なぜだかわかりませんが、「3」という数字が頭に浮かびました。
「3ヵ月」では足りない。「30年」では長すぎる。
そう思った私は、その物体に向かって、こう叫んだのです。
「3年、待ってくれ!」
そして私は、奇跡的に、死の淵から生還したのです。
私は特定の宗教に入っているわけでも、信心深いわけでもありませんが、今でも、「生かされた」と思っています。
弟で専務の山本昌治は、
「あの火事が、天狗になっていた副社長の鼻をへし折るきっかけになった」
と言います。
「副社長には自覚がなかったと思いますが、当時は業績が伸びていましたし、『ヒルトップ・システム』が徐々に注目されていたこともあって、どこかで少し、調子に乗っていたところがあったのかもしれません。
あの火災は副社長にとって、仏教でいう『変毒為薬(へんどくいやく)』(毒を仏や本尊の功徳により薬にする)だったのだと思います。
今、副社長は、工場火災という悲劇から謙虚さを学び、未来に活かそうとしている。
あの火事の後、副社長は明らかに変わりました」(山本昌治)
約4ヵ月後、まだ自力では歩けない状態でしたが、退院が決まりました。
そのとき、弟から辛い報告がありました。
私が危篤状態になったその日に、火災に巻き込まれた社員のひとりが亡くなったことを聞かされたのです。
すべてが終わってもかまわない、とさえ思いました。
退院直後、その方のお宅でお線香を上げさせていただいたとき、私は、一生分泣きました。
生涯忘れられない瞬間です。
3ヵ月間のリハビリの間、私は社会復帰の自信もなく、完全に生きる気力を失っていました。
しかし、私が意識を失っている間も、社員たちが「副社長を一所懸命、支えなあかん」と頑張ってくれていたことを知りました。
それを聞いて、あきらめていた自分が恥ずかしくなり、新しいビジョンに向かって進むことができたのです。
専務の言うとおり、火災後、私は改めて人生の目標、意味、価値を深く考え直すようになりました。
この大惨事を境に、
「自分にはあまり時間が残されていない。
だから社員が誇れるような何かを残したい」
と強く思うようになったのです。
前述した故・中村元先生は、NHKの『あの人に会いたい』(2006年)の中で、
「人間の体は王様の飾り立てた車のように、やがては朽ちてしまう。
けれども、人から人に伝えられる真(まこと)の法(のり)はいつまでも輝く」
とおっしゃっていました。
「私の命は3年しかない。
私はやがて朽ち果てる。
けれど、私がいなくなっても、『楽しくなければ仕事じゃない。楽しいというのは知的作業のことである』という真理を次代に残していかなければならない」。
そうした思いから、「夢工場」をつくりました。
夢工場は、私にとっての「真の法(法=真理、物事の本質)」なのです。