「終活する」とはどういうことだろうか
大学生の就職活動(就活)に引っ掛けて、人生の終わりを想定して準備しましょう、と名づけられたのが「終活」です。
相続の問題、葬儀とかお墓のこと、家族も知らないようなこと、SNSのIDとパスワードなど、もろもろを「エンディングノート」に書き込んでおき、「いざ」というときに備えるわけです。誰しも「死」だけは絶対に避けては通れません。そこで、几帳面な人ほど、周りに迷惑をかけまいと「終活」に励むことになります。
終活するとは「迷惑をかけない」ことの最終形態なのかもしれません。
しかし、迷惑をかけずに生きて死ぬことなど本当にできるのでしょうか?
迷惑をかける存在
以前、宗教評論家のひろさちやさんの講演を聞いたことがあります。ひろさんのお母さんは、「ぽっくり死にたい」「ボケたらみんなに迷惑をかけてしまう」と頻繁に言っていたそうですが、これに対してひろさんは、「あんたは生きている限り迷惑だ」と言い放ったというのです。
初めて聞いたとき、私は「ずいぶんひどいことを言うな」と思いました。ひろさんは「うちの母親だけでなく、すべての人間はみな生きている限り、周りに迷惑をかけまくっている存在なんです」と続け、「どんな人間でも迷惑をかけることが当たり前。それを無視して、死んだ後のことをすべて自分で決めようとする『終活』にはエゴがつきまとっています」と指摘しました。
「迷惑をかけないこと」は日本人の美徳の一つと思われています。確かに美徳ではあるのですが、その意識が社会の中で過剰になりすぎて、「人は周りに迷惑をかけずには生きられない」という真理を無視してしまう。そうなると、多くの人々にとって生きづらい社会になってしまうのではないでしょうか。
仏教では「縁起(えんぎ)」という教えがあります。それはみなすべてが相互に関係しあって、支え合いながら生きているということです。支え合いながら生きているということは、そのまま「迷惑をかけ合いながら生きている」ということです。
内田樹(たつる)さんが以前書かれた本のタイトルに『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)というものがありました。もともと「ひとりでは生きられない」のですから、周囲に感謝の気持ちを持ちながら「お互いに迷惑をかけあう能力」を積極的に磨くことも必要なのかもしれません。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)