もっとも、18年前はちょっと笑えない後日談がある。マリノス戦の1週間後に迎えたファーストステージ最終節。小雨が舞ったセレッソのホーム、長居スタジアムには4万3193人の大観衆が集結。スタンドをチームカラーのピンクに染めて、自力で決められるステージ制覇を後押しした。

 しかし、セレッソの選手たちはキックオフ直後から精彩を欠く。1-1のまま突入した延長戦の後半開始早々に決められた延長Vゴールで、最下位の川崎フロンターレにまさかの黒星を献上した瞬間、ジェフを下した旧国立競技場で待機していたマリノスの再逆転優勝が決まった。

「最下位のフロンターレが相手でしたから、戦う前からもう優勝したかのような雰囲気になっていて。みんなで『ヘルメットをかぶった方がいいかな』と、祝勝会のビールかけに備えた話をするほど勘違いが生まれていた。そうした心の油断もあって、実際に試合が始まったら僕も含めて心と体がガチガチでした」

 苦笑しながら当時を振り返ったことのある森島は、この時で心技体のすべてに脂が乗った28歳。加入して10年目を迎えていたセレッソはプロ化への対応が遅れ、Jリーグが華々しく産声をあげた1993年に参戦した、いわゆる「オリジナル10」の中に名前を連ねられなかった。

 ようやく昇格を果たしたのは1995年。この間には生まれ故郷の広島市をホームタウンとするサンフレッチェ広島から移籍のオファーが届いたが、セレッソへの愛を貫く形で固辞している。そして、2001年のオフにも、リスクを覚悟の上で森島はセレッソへ残留することを優先させている。

 2001年のセレッソはファーストステージから低迷。2度の監督交代もあって年間総合順位で最下位に終わり、初めてのJ2降格が決まった。けがもあって連続2桁ゴールが4シーズンで途切れていた森島は、前線でコンビを組んだ清水東高出身のFW西澤明訓とともに残留することを決めた。

「悔しさよりも自分が何もできなかった、という思いの方が強かった。なので、はなからセレッソを出る考えはなかったですね。実際のところ、移籍のオファーがあったかどうかも分からないんですけど」

 ワールドカップ日韓共催大会が半年後に迫っていた。J2所属選手が代表に選ばれるのか――不安は杞憂に終わった。トルシエジャパンに選出された森島は、慣れ親しんだ長居スタジアムで行われたチュニジア代表とのグループリーグ最終戦で先制ゴールをゲット。日本を決勝トーナメントに導く勝利を手繰り寄せた。

「僕が代表で何を残したかと言えば、あのチュニジア戦しかないですからね。現役でいる間に子どもの頃から憧れてきたワールドカップが日本で開催され、しかも自分が代表に選ばれて、いろいろな組み合わせの中で日本の試合が長居で行われることも縁を感じていたし、そもそも僕がセレッソの一員にならなければ特別なゴールにはならなかった。その意味でも、サッカー人生の中で忘れられないシーンですね」