「プロトタイピング」「両脳思考」「共創」といったどの要素を取っても、デザイン思考と美的なセンスとのあいだには直接的な関係がないのは明らかだ。
デザイン思考とは、万人が創造性を発揮するためのアプリケーションに過ぎない。この大地では、表向きには誰もが平等であり、見晴らしのいい平原が広がっている。
しかしながら当然、この地にも「先住民」はいる。
デザインや美術に関する素養を持ったデザイナーやクリエーターたちだ。大地の一角にはきらびやかな塔が建っており、一部の人にしか立ち入りが許可されていないようだ。要するに、「センスがない人はお断り」というわけである。
「戦略の荒野」からやってきた人のうち、もともとクリエイティブなことへの志向を持っていた人、何か具体的なモノ・サービスをつくった実績・経験がある人は、この塔に住んでいるアーティストらと組んで、次々とアウトプットを行っている。
とはいえ、そうしたコラボレーションに成功するのはひと握りだけで、大半の人たちは「平原」の見学ツアーを楽しんだあと、決まりの悪そうな顔をして、「橋」を引き返していく。論理・言葉に基づいた左脳型のシェア争いを繰り返していた人たちは、自分たちの創造性に自信が持てず、どこかで「先住民」たちへの引け目を感じている。
さらに、問題はこれだけではない。
デザイン思考は人々に共通する課題解決という局面では、かなり明確に効果を発揮する。
プロトタイピングや両脳思考でアプローチしながら、複数人の集合知を組み合わせていく(共創)ため、誰もが納得のいく「答え」にすばやく到達することができる。
だが、これは裏を返せば、つくり手の個性や世界観の表現が制限されてしまうことでもある。
「みんなでつくる」以上、「自分一人でつくる」ときよりも「自分らしさ」が失われるのは、当然と言えば当然だ。デザイン思考を忠実に実行すると、どうしても「他人モード」に偏りがちなのである。クライアントの問題解決をするデザイナーにもこれと同じことが起きる。
チームのリーダーとしてメンバーを助けることに慣れ過ぎた人が「自分モード」を見失っていくのと同じように、他人が抱える問題の解決ばかりに夢中になっていると、「誰の役にも立たないけれど、自分にとって大切なこと」が視界から消えていく。
「人の役に立つのがうれしい」と思って続けていると、いつのまにか「自分がなくなっている」ことに気づく。
こうして内面的な「迷子」に陥った人々は、ここから先、どこに向かえばいいのだろうか?
そこでふと視線を向けた先に広がっているのが第4の大地「人生芸術の山脈」だ。