経済財政政策担当大臣など政府の要職を歴任し、現在は内閣府規制改革推進会議の議長を務める大田弘子さんは大学卒業後、一時「フリーターだった」ことがあるという。そんな意外な経歴を持つ大田さんの目に、日本人の働き方はどのように映るのか。仕事との向き合い方からキャリアについての考え方、そして安倍政権が取り組む女性活躍推進の課題まで幅広く話を聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長 麻生祐司)
就職時の男女格差が
ごく当然だった1970年代
――大学卒業後、「フリーター」だった時代があったそうですね。
私は1976年に一橋大学を卒業しました。もともと景気がよくない「どしゃぶり」といわれた時代で、おまけにその頃は男女雇用機会均等法もなく(均等法の施行は86年)、四年制大卒女性の就職は困難を極めました。
母校の大学は、女子学生は数が少ないために各企業の指定校にすらなっておらず、新聞の求人欄で仕事を探す状態でした。私は陸上部にいましたので、同期の男子は引く手あまたでしたけどね。ある銀行の外為部門からは募集がありましたが、ただし「短大卒扱いで」と。採用はなくても、いろいろな企業に関心があったので、説明会には出かけました。ある大企業の説明会では「我が社には魅力的な男性社員がたくさんいるので、どうぞよいお相手を見つけてください」と。そんな時代でした。
私はジャーナリスト志望でしたが、新聞社も雑誌社も女子の求人はまったくなし。ツテを頼って、いくつかの出版社を受けました。面接では最終まで行っても、結局、女子の採用はなし。そのうちにある企業の社内報編集の仕事が舞い込みました。社内報の編集は出版プロセスの全体を経験できますから面白かったのですが、いろいろな問題があって、すぐにも辞めたくなりました。でも、その会社も四年制大卒女性の採用は私が初めて。ここで辞めたら、次に続く大卒女性の採用はなくなるだろうと、2年間は勤め続ける決心をしました。根が楽天的なので、さあ2年経ったぞと喜び勇んで辞めましたが、次の勤め先がない。失業保険を受け取りながらフリーターをしました。でも、新卒の採用すらないのに、中途採用の機会などないですよね。その後、縁あって生命保険文化センターの研究員となり、いろいろあって今に至ります。
こんなスタートを切りましたから、職があるだけでもありがたいという気持ちは身にしみついています。「自己実現できる仕事をしたい」というようなことを言う人がいますが、働く場を得て、自分でエサを取ってくるだけでも、十分に大変なことではないでしょうか。もしも自分のやりたかった仕事に出合うことができれば、それはもう幸運中の幸運。