意識ははっきりしているのに、生命がある限り続く“金縛り”。そんな生き地獄のような状況からなんとか患者を救い出すための戦いもまた、苦悩に満ちたものだった。

「僕は脊髄腫瘍の治療もしていますが、手術の際に、紙切れみたいなペラペラの神経だけでも残してあげれば、訓練次第でジョギングも可能なほど回復します。脊髄の中に神経が仮に100本あるとしたら、5%でも10%でも移植によって神経がつながり、失われたネットワークを再構築できれば、動けるようになる。今、あと少しというところまできています」

 筆者の取材に、中村先生が最初に答えてくれたのは2014年のことだった。あれからさらに5年を経て、ようやく実現が見えてきた夢。ここに至るまでの20年、先生はどれほどの挫折感やもどかしさと対峙(たいじ)し続けてきたのだろう。

目の前で後輩が脊髄損傷
「なんとしてでも治したい」と決意

 きっかけは、中村先生が大学2年生の冬に遭遇した、ある事故だった。所属していたバスケットボール部のスキー旅行。1年下の後輩が彼の目の前で転倒し、脊髄損傷になってしまったのである。

「彼が目の前で転んだとき、僕らは無邪気に笑っていました。ところが雪のなかに埋まったまま、全然動かない。『大変だ』となって慌てて救出し、病院へ搬送しました。医大生とはいえ、当時の僕は無知で、脊髄損傷がどういうケガで、その後どうなるかということはまったく見えていませんでした。だから、ようやく病院に到着し、病室に入ったときには、もう大丈夫だと安堵(あんど)したのです。でも、全然大丈夫ではありませんでした」

 数ヵ月後、見舞いに訪れた中村先生を迎えたのは、変わり果てた後輩の姿だった。

「『退院し、リハビリをしている』というハガキをもらったので、回復してよかったと、お祝いを言うつもりで彼の家へ行きました。玄関を開け、中に入った瞬間に受けた衝撃は、一生忘れません。彼は顎で電動車いすのレバーを操作して出てきたのです。首から下は、まったく動かせない。僕は自分の能天気さを呪いました。

 結局、彼は医学部を続けることができなくなりました。医者を目指して、大学に入ったばかりだったのに。彼のその後の人生をそばで見ていた僕は、これだけ医療や医学が進歩しているのに、なぜ治せないんだろう、なんとか治してやりたいと、強く思うようになりました」

 それが、不可能に挑む、長い長い研究人生の始まりだった。