自分1人の命で、複数の人が助かるなら?
「いや、さすがにそれはちょっと……、特にピーナッツバターだけは絶対にやめられないというか」
「何の覚悟もないのなら、まるで自分が功利主義の体現者であるかのような発言はやめてもらおうか!」
「……!」
唐突な一喝に千幸の身体がビクッと震えた。急にどうしたのだろう。千幸の発言に、よほど気に入らないことでもあったのだろうか。先生の、赤みが入った色つきの眼鏡、それ越しでも目が怒っているのがはっきりとわかった。
「そんなキミには『臓器くじ』の話をしてあげよう。世の中には、不運にも病気になってしまい、すぐにでも臓器を移植しなければ死んでしまう人たちがたくさんいる。そんな彼らを救うため、ある功利主義者がこんな法案を考えたとする」
「くじ引きで国民の中から無作為に誰かを選び、その人を強制的に連れ去る。そして、その人の身体をバラバラに分解して、心臓、肺、肝臓、腎臓、小腸などの臓器を移植用に取り出す。そうすることで複数の病人を救おうという法案だ。さて、功利主義に賛成するキミに問おう。この法案は正義だろうか?」
「それは……もちろん正義ではなくて……悪いこと」
「いやいや! その答えはおかしいだろう! だって、どう考えてもこの法案を採用した方がハッピーポイントの合計値は大きくなるじゃないか。なぜなら、ひとつの苦痛によって多数の苦痛が無くなるからだ。功利主義の原理から言えば、これこそ正義ではないのかね!」
「でも、そのくじに当たった人は、本来、無関係の人だし……」
突然豹変した先生の態度についていけず、おどおどしながら答える千幸。しかし、それに対して先生はさらに語気を強めて早口でまくし立てる。
「無関係? それを言ったら、病人たちだって同じだ。彼らは、まったく無関係なのにたまたま『病気というくじ』に当たったにすぎない。彼らだって、そのくじを引きたくて引いたわけじゃないのだからね。だとしたら、それは臓器くじにたまたま当たった人とどう違うのか! それに、この臓器くじという法案を成立させれば、『自分の意に反して不条理に死ぬというくじ』に当たる確率をむしろ減らすことができる」
「つまり、不条理に死ぬ確率が減るという恩恵を人類全員が平等に享受することができるのだ。功利主義者であるならば、この臓器くじに反対する理由はない。むしろ、率先してこの法案を成立させるための活動を、キミは今すぐ起こすべきだ!」
「いや、そもそも、功利主義の素晴らしさをうたうキミにとっては、法案もくじも関係ないだろう。この世界に臓器を必要として苦しんでる人はごまんといる。ならば、法案を成立させるまでも、くじを引くまでもない。ハッピーポイントを増加させるため、キミがその足で病院へ行って自分の臓器を提供すればいい!」
そう言って先生は、黙ったまま真っ青になって立ち尽くしている千幸へと指を突きつける。そして、次にその指を教室のドアの方へと向け、真っ赤な顔で怒鳴るように叫んだ。
「さあ、何をしている!? 早く病院へ行け!! もたもたするな!!」
(『正義の教室』第3章 平等の正義「功利主義」より抜粋)