自分の死体を使って幸福度を上げる

 理屈はわかる。でも、それが正義だと言われるとちょっと違和感があるな。
 だって、それって逆に言えば、死体を提供しない遺族がいたら、その遺族は「みんなの苦しみよりも個人の小さな快楽を優先させた悪人」ということになるわけで、それはやっぱりおかしい気がする。

 もちろん、一方で、僕自身や僕の家族が今すぐ臓器移植しなければ死ぬという状況だったとして、その臓器が提供できるほぼ無傷の新鮮な死体があったとしたら……「お願いだからその死体使わせてよ! いいでしょ、もう死んでるんだから!」って心境になりそうな気もする。

 でも、だからといって、それを正義の名のもとに他人に強制するのは、やっぱり違うような気もするし、ああもう、なんだかよくわからなくなってきた。

「ちなみに、この死体解剖の話だが、ベンサムは自ら実践し、死後、自分の死体を提供して学生向けに公開解剖させている」

 マジかよ。説を唱えるだけじゃなく、有言実行で自ら実践するって、やっぱりベンサムは半端ないな。功利主義の創始者と言えばベンサムだというのも今更ながら納得できる話だ。

「そして、この話には続きがある。提供されたベンサムの死体は、その後、ミイラとして保存され、今も残されている」

 え!?

「ベンサムは、どうすれば自分の死体をもっとも有効活用できるかを考えた。功利主義的に言えば、自分の死体をどう使えばみんなの幸福度を高められるかをずっと考えていたわけだ。その結果、彼は、自分の死体を誰でも見られるような場所に飾り、功利主義のシンボルにするというアイデアを思いつく」

「実際、晩年のベンサムは、どこからか死体を手に入れては、自分の家で水分を抜いてミイラ化するという実験にとりつかれるようになるのであるが、結局、その執念じみたベンサムの願いは遺言書として残され、死後、公開解剖のあとに本当にミイラ化の実験が行われる。そして現在……。ロンドン大学には、今でもこのベンサムのミイラが普通に、それも誰でも見られるような場所に展示されているそうだ」