哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第3章を特別公開します。


 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。

 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?

王様の腕を折るか、2人の奴隷の腕を折るか、「正義」はどっち?

功利主義の創始者、ベンサムとは?

 前回記事『飢えて死にそうな人がいても、食料は「平等」に分けるべきか?』の続きです。

 先生は後ろを振り返り、黒板に誰かの名前を書きだした。話題が変わったことで倫理は何事もなかったかのようにそのまま席に座った。そうそう、先生それで正解です。僕もその方法で何度となく危機を脱してますよ。

「功利主義の創始者の名は、ベンサム。18世紀後半から19世紀前半に活躍したイギリスの哲学者だ。彼は法律家でもあったのだが、当時、イギリスの法律はいい加減で曖昧なものであり、彼はそれをとても許しがたいものだと感じていた」

「いや、そもそも法律というのは、イギリスに限らずどこの国であろうと、元来、曖昧なものであると言えるのかもしれない。たとえば、日本において法律は六法全書できちんと明文化されているが、それでも弁護士によって判断が違ったりするだろう?」

 あ、それすごくわかる。子どもの頃、僕は法律というのは、人それぞれの解釈の余地なんかないほど細かくすべてがガチガチに決まってるものだと思っていた。が、ある日、法律を題材にしたバラエティ番組をみて、その思い込みは打ち砕かれる。

 その番組では、何らかの事件に対し複数の弁護士が違法か合法かを判断するのだが、その答えはてんでばらばら。法律って、こんなにも人それぞれの解釈ができる曖昧なものなんだと、すごくショックを受けたことがある。

「法律家のベンサムにとって、その時代の慣習や個人の感性によって法の解釈が変わってしまうイギリス法曹界の現状はとても許せないものであった。そこで彼は法の根拠となるものを求めた。つまり、法が法として成立するのはどういう条件によるものなのか? 言い換えれば、法とはどんなときに正しいと言えるのか? そうしたことをベンサムは問いかけたのだ」

「この問いかけは、とても非凡で素晴らしいものだと思う。なぜなら、たいてい我々は、法とは正しいものであり、法は守って当たり前という前提で物事を考えてしまいがちだからだ」
 
「だが、ベンサムは、法律家でありながら、いや、むしろ法律家だからこそ、世間の慣習や常識に流されず、法の正しさの根拠を見いだそうとしたのだ。そんなベンサムは、ある日、本の貸し出しもやっている小さな喫茶店で1冊の本を借りる。その本には、先ほど説明した功利主義につながるこんな一文が書かれていた」

『いかなる国家であれ、その構成員の多数者の利益と幸福が、国家に関わるすべての事柄が決定される際の基準となるべきである』

「この短いたった一文との出合いが、ベンサムの人生を変える」