京セラ、KDDIを創業し、すでに名経営者としての盛名を固めていながら、78歳のときにあえて火中の栗を拾うように日本航空の再建を引き受け、見事成功に導いた稲盛和夫。鹿児島生まれのガキ大将は、人生の節目で何を考え、いかにして名経営者への階段を上っていったのか。貴重な写真と共に振り返る。(ダイヤモンド編集部)*文中敬称略
Photo by Hiroyuki Oya
同じ志を持つ者たちとの心情的な一体感と信頼関係の下、事を成し遂げる。それこそが男子の本懐──。西郷隆盛、大久保利通など維新の志士を生んだ薩摩(鹿児島)には、そんな武士文化が残る。
1932年、稲盛和夫は鹿児島市内に生まれた。幼少時代は遊びに夢中なガキ大将だったという。名門の旧制鹿児島一中を受験するが不合格。国民学校高等科に1年通った後、翌年も再び鹿児島一中を受けるも、またもや落ちた。さらに肺結核を患い、1年遅れで私立の鹿児島一中に進んだ。
大学は大阪大学医学部を目指したが不合格。地元の鹿児島大学工学部応用化学科に入学した。戦争で父親が経営する印刷所は焼け、家族の生活は困窮を極めていたため、参考書も買えず図書館でひたすら勉強した。
しかし、大学を卒業した55年は朝鮮戦争の反動不況で就職難。帝国石油への入社を希望していたが、地方大学から中央の一流企業への就職は難しかった。結局、教授が見つけてくれた京都の松風工業という会社に入社する。高圧線の碍子(がいし)を作る小さな焼き物メーカーである。