すべての判断基準は「人間として何が正しいか」──。多分に宗教色を帯びた稲盛氏の経営哲学はどこから来たのか。松下幸之助氏や稲盛氏などの経営思想を研究する専門家が分析する。
「稲盛哲学」は
いかにして形成されたか
稲盛和夫氏の著作『生き方』(サンマーク出版)が、2004年の刊行から今もなお売れ続けている。そのほかの既刊書も、ロングセラーが多いと聞く。また、日本国内ばかりでなく、中国や韓国でも高い人気を得ているそうだ。
経営者としての手腕のみならず、幾多の試練を乗り越えてきた同氏の人生経験と深い思索に裏打ちされた「稲盛哲学」の魅力が、多くの人々を引きつけるのだろう。
その一方で、稲盛氏の経営者としての力量は認めるものの、「稲盛哲学」にはどうもなじめないという向きもある。理由は人によってさまざまと思われるが、その一つとして「稲盛哲学」に宗教色が見て取れることが挙げられよう。
しかし、宗教に対して抵抗感がある人にとっても、「稲盛哲学」の背景や文脈を読み解いていけば、稲盛氏の宗教的観念は、日本人にとって比較的なじみのあるものだということがわかってくる。また、同氏の考え抜く姿勢が、宗教の領域にまで足を踏み込ませたと思われる。
稲盛氏の宗教といえば、禅を思い浮かべる人が多いだろう。1997年に、西片擔雪(にしかた・たんせつ)老師の京都・円福寺(臨済宗妙心寺派)で得度し、当時はマスコミにも広く取り上げられた。なお、2006年に亡くなった西片老師は、もともと稲盛氏の知人の書生であり、長らく稲盛氏の精神的アドバイザーのような存在だった。そういう人間関係もあって、禅に関心を持ったのだろう。
ただ、稲盛氏の宗教に対する関心は、禅に始まったのではない。「稲盛哲学」の宗教的背景を理解しようとすれば、同氏の人生を、鹿児島時代の幼少期にまでさかのぼる必要がある。
幼少期の隠れ念仏の体験と
生長の家との邂逅
『生き方』によると、4~5歳ごろ、父に「隠れ念仏」に連れていかれ、「なんまん、なんまん、ありがとう」という、仏に対する感謝の言葉を教わった。「隠れ念仏」とは、江戸時代に薩摩藩で浄土真宗が弾圧されて以来、ひそかに活動を続けた念仏講の一つであるとみられる。この幼いころの体験が稲盛氏の「哲学」形成にどれほどの影響を与えたのかわからないが、自身によると、感謝する心の原型になったという。
一方、「稲盛哲学」の形成に明らかに影響を与えたとみられるのが、「生長の家」である。30年代半ばに創始者・谷口雅春による『生命の實相』という本が注目を集め(当時は同書に触れるだけで病気が治るともいわれたそうだ)、戦後も拡大を続けた教団で、信者には比較的インテリ層が多いといわれる。
『稲盛和夫のガキの自叙伝』(日経ビジネス人文庫)によると、稲盛氏は少年期に肺浸潤という結核の初期の病に侵された。隣家の女性から『生命の實相』を読むように勧められ、読んでみたところ、「われわれの心の内にそれを引き寄せる磁石があって、周囲から剣でもピストルでも災難でも病気でも失業でも引き寄せるのであります」とのくだりに衝撃を受けたという(32ページ)。
この文は、『生命の實相』頭注版第1巻135ページに掲載されていて、「それ」とは、この引用文より前にある「剣でもピストルの弾丸でも」を指している。そして引用文の意味は、幸・不幸の現象はその人の心の投影(「唯心の所現」)であるということだ。