やってみないとわからない。
経験は何一つムダにならない

 もちろん、このように行動を続けていると、いいことだけでなく、予想と違ったり、悔しかったりしたことも多くあります。

 当時、「○○協会」というものが流行っていたので『国際ボードゲーム協会』という協会を立ち上げてみました。
 立ち上げるといっても、実質、○○協会というのは、ただ名乗るだけであれば、お金はかかりません。当時、海外のボードゲームを扱った協会はなかったので、とりあえず、名乗って活動してみたのです。

 しかし、実際に活動してみて気づいたのですが、「協会」というのは、もともと認知されているものに、協会というギャップのある格式ある名前がつく方が印象に残ります。つまり「唐揚げ協会」や「アイスクリーム協会」など、身近なものに「協会」という格式高い名前がつくと、「なんだこれは?」と気になるのです。
 僕が活動していたときは、ボードゲームという言葉が今ほど浸透していなかったのもあって、あまり反応もなく、結局、半年くらいでそれを名乗るのはやめて、せっかくつくったホームページも消してしまいました。

 また「電車の中で数独をやる高齢者が多いから、ボードゲームは高齢者と相性が良いのではないか?」と考え、地元である埼玉の老人ホームに電話をして、やらせてもらうことにしました。
 しかし、実際やってみたら、そのときのイベントでは、喜んではもらえたのですが、今までにない新しいボードゲームのルールを高齢者に覚えてもらうことはなかなか難しいことが判明しました。
 自分の想像していたイメージとはちょっと違っていたので、老人ホームでのボードゲーム活動はやめることにしました。結果、体験しないと「合う」か「合わない」のかもわからないものだ、と思いました。

 僕はそれまでボードゲーム開催はすべて、その会場に行っていました。つまり、集客と会場があるところに、コンテンツであるボードゲームを無料で持ち込んでいました。
 そこで、自分でイベントを開催し、集客して場所を確保してボードゲームをやってみよう、と挑戦してみました。初めてやった結果は、1人500円の会費で5人参加、場所代が1時間1000円で3時間やったので3000円。収支はマイナス500円の赤字。イベントって難しいなと感じたデビューでした。

僕の「存在価値」とは何かと
考えさせられた言葉

 今でも覚えているのが、ある知り合いとボードゲームをして盛り上がっていたのですが、終わったあとに「今度、ボードゲームだけ貸してよ」と言われたことです。

 これは、「おまえなんかいらないから。ゲームだけあればいいから」と言われたような気がして、これが非常にショックでした。
 今思えば、普通に「このゲームは面白いから、今度貸してよ!」みたいな、小学生が、自分が持っているゲームソフトを交換するみたいなニュアンスだったのかもしれません。でも当時の僕は、頭を殴られたようなショックを受けたのです。確かにボードゲームは説明する人がいなくても、ルールブックがあるし、遊べる。だから僕の存在価値そのものが否定されてしまった……と感じて心底悔しかったのです。

 この事件以来、僕は「こいつがいるから、ボードゲームって面白いな」と思ってもらえるようにずっと意識し続けてきました。

 いかに場を盛り上げられるか、いかにボードゲームを知らない人に、導入しやすく、興味をもってもらうか。
 そして、ルール説明に滞りがなく、理解してもらえて、ゲーム中も飽きずに集中してもらい、終わった後に「この体験ができてよかった」と思ってもらえるか。このように、ゲームの進行や流れ、組み立てをいろいろ考えるようになったのも、あの嫌な経験があったからだと思います。
 そう考えれば、ムダな経験は何一つないのです。
 それもあって、今では、ボードゲームソムリエがいるから、やっぱり違うねというようなことを言われるときは、とてもうれしくなります。