善や正義は言葉で説明できない?
どこかで聞いた話だな。キーボードの上で猫を歩かせたら、偶然シェイクスピアの作品が出来上がることもあるみたいな話だっけ? まあ、シェイクスピアの作品がどれだけ長いか知らないが、一応、言葉の組み合わせでできている以上、組み合わせを延々とやっていけば、いつかは同じものが出力されるのは当然のことではある。
「さて、もっとスケールを大きくしよう。このコンピューター、文章をランダムに作り出す機械を『無限』に動かしたと考えてみてほしい。すると、あらゆる言葉の組み合わせを網羅した文章……とんでもない量の文章が出力されるわけであるが……、この膨大な文章をすべて同じように枠の中に入れてしまおう」
先生は、再び枠の中に文字―今度は、「理性(言葉の世界)」という文字を書き入れた。「というわけで、人間がその思考活動によって生じうる、すべての文章が、今この枠の内側に入ったわけだが……そうすると、今後どんな知識人がどんな本を書こうが、どんな説明を、どんな論文を、どんな学説を作り出そうが、その文章はこの枠の内側にすでにあるということになる」
ランダムな文章を無限に生成したわけだから……、いま書店にある本もそうだし、将来、書店に並ぶであろう本もすべて、この枠の内側にすでに存在している……これもまあ、その通りだろうな。
「それだけじゃない。キミたちがまさに今考えていること、そして、今後、考えるであろうことも、無限の文章の組み合わせの中に含まれるのだから、枠の内側にすでにあると言える」
本当にスケールの大きな話だった。何が起ころうと、何を考えようと、とにかくそれらはすべて、枠の内側に必ずあるということか。
「では、ここで問おう。善とは、正義とは、どこにあるだろうか? 正義くん」
意図がよくわからなかった。でも、起こりうる、考えうる、すべての出来事が枠の中にあるのだから、当然、「枠の内側でしょうか?」と僕は答えた。左隣から視線を感じたので、ちらりと見ると、倫理が僕のことをにらんでいた。どうやら間違ったようだ。
「正義くんの左隣、副会長だったか、キミはどう思うかな?」
先生は倫理に問いかけた。ちなみに右隣は千幸。ミユウさんは、いつものように遠く後ろの席に座っている。
「はい。善や正義は、言葉や理屈で説明できるものではありません。だから、枠の内側にはなく、もしあるとしたら―それは枠の外側だと思います」