人殺しに対する「2つの考え方」
「ふむ、そうだな。まさに『宗教の正義』では、そのように正義を捉えている」
そう言って、先生は枠の外側に小さな点線の丸を描き、その中に「善」「正義」という文字を書き入れた。
「いや、正義くんの答えも間違いではない。それは主義の違いの問題だ」
たとえば、功利主義―『全体の快楽の増加が正義である』という考え方において、快楽とは『脳の状態』という物理現象なのだから、当然、この巨大な枠の内側での出来事だと言える。
そして、功利主義の『快楽の増加が正義』という論も、文章すなわち思考活動であるわけだから、これも枠の内側に属するものであると言える。
このように功利主義は、すべて枠の内側で成立する主義主張であると言えるわけで、功利主義を採用する人にとって『正義』は、枠の内側の存在であると言える」
なるほど。で、一方、宗教の正義では「枠の外側」―つまり「物質の世界」や「言葉の世界」を超えたところに正義があると考えているわけか。
「さて、ちょっとここで、『なぜ人を殺してはいけないか?』という問題について考えてみてほしい。キミたちならこの質問に何と答えるだろうか?」
「たとえば、一例として、『他人から殺されるかもしれない社会では不安でオチオチ眠れない。そこで、みんなで殺人はダメという暗黙のルールを作った。だから、人を殺してはいけないのだ』という回答の仕方があるだろう」
「これは功利主義的な回答であるが、合理的な思考活動の結果であり、まさに枠の内側での回答と言える。もちろん、それ以外にも、さまざまな回答の仕方があるだろうが、いずれにせよ、この問いに何か合理的な答えを与えようと『考えた』時点で、それは共通して『枠の内側での回答』ということになる」
「では、『宗教の正義』の立場の人ならどう答えるだろうか? 簡単だ。彼にとっては議論も思考も必要ない。なぜなら、それらを行ったところで、それはただ、枠の中をグルグル回るだけにすぎないからだ。そして、枠の中には正義は存在しない。だとしたら、そんな行為は無意味である。だから、彼は、ただ黙って枠の外にある正義を直接『指差す』。そして、こう叫ぶだろう」
「『人殺しは悪いことだ! 正義に反する! そんなことは考えなくてもわかるはずだ!』と」
次回に続く。