パラノとスキゾ
一つのアイデンティティに固執する危険性
特に現代のような先読みの難しいVUCAな社会では、多くの人が人生のどこかで「逃げる」というオプションを取らざるを得ない局面がやってくると思われます。
思想家・評論家の浅田彰は著書『逃走論』の中で、フランスの思想家ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著による『アンチオイディプス』で用いられた「パラノ」と「スキゾ」という概念を援用しながら、不確実性の高い世界において「逃げる」というオプションを持っていることの重要性について次のように指摘しています。
さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、《住む》ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子どもの尻をたたいて、一家の発展をめざす。このゲームは途中でおりたら負けだ。《やめられない、とまらない》でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキといえばビョーキなんだけど、近代文明というものはまさしくこうしたパラノ・ドライヴによってここまで成長してきたのだった。そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安定していられる、というワケ。ところが、事態が急変したりすると、パラノ型ってのは弱いんだなァ。ヘタをすると、砦にたてこもって奮戦したあげく玉砕、なんてことにもなりかねない。ここで《住むヒト》にかわって登場するのが《逃げるヒト》なのだ。コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくスキゾ型、というワケね。
――浅田彰『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』
浅田彰の指摘には2つのポイントがあります。
1つは「パラノ型は環境変化に弱い」という指摘です。この点については本書でもすでに指摘した通り、現在、企業や事業の寿命はどんどん短くなっています。
この状況を個人のアイデンティティ形成と紐づけて考えてみるとどうなるか。職業というのはアイデンティティ形成の最も重要な要素ですから、1つのアイデンティティに縛られるということは、1つの職業に縛られるということになります。
一方で、会社や事業の寿命はどんどん短くなっている。この2つを掛け合わせて得られる結論は、すなわち「アイデンティティに固執するのは危険である」ということです。
堀江貴文氏は近著『多動力』において「コツコツやる時代は終わり」「飽きたらすぐやめろ」と訴えていますが、これも「パラノ」より「スキゾ」が大事だという指摘として読み替えることができます。
私たちは「一貫性がある」「ブレない」「この道ン十年」みたいなことを、手放しで賞賛するおめでたいところがありますが、しかし、そのような価値観に縛られて、自分のアイデンティティをパラノ的に固持しようとすることは自殺行為になりかねません。