小さなコミュニティ「だから」満たせるものに気づけるか
彼が経験したことは、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアが普及する中で生じる「疲れ」と呼応する出来事だ。
当初は承認の欲求が充たされる体感に浸ることができるものの、どうもそこにいる自分は「本当の自分」じゃない気がする。もちろん、ソーシャルメディアで築いた「自分」を失うのはイヤだ。だが、そこにいることでイヤなことも経験したし、もうそこにずっといたいわけではない。蓄積していく「疲れ」から逃れたい――。そう思うのは極めて自然なことだろう。
こうして見てみると、特定の人と個別に親密なコミュニケーションができるLINEというサービスにユーザーが集まってくる理由もわかってくる。その背後には、ソーシャルメディア疲れからの回避という側面も見受けられる。「家族」「友達」「恋人」などと個別に、自分の素をさらして行えるコミュニケーションの場であることを考えると、それが支持される現象はとてもしっくりくる。
そもそも、個人がソーシャルメディアの中で多数の人や複数の属性の人とコミュニケーションを図ることだけが解ではない。
多くの人から自分(の投稿)を承認されることは悪くない。でもそのためには、どこか自分の中に無理(疲れ)を抱えてしまうことも僕らは気づいてしまった。その結果、人々はもっと小規模でクローズドな「場」を求め始めた。家族や恋人、親友同士で承認を充たし合うということの価値を再認識するかのように。
ここで、冒頭の恋人同士のやり取りを思い返してみてほしい。あなたは、Facebookの中で上司に怒られたことを吐露できるだろうか。そしてそれに対し、「そんな上司なんか、無視無視!」などとコメントできるだろうか。会社の人も見ているかもしれない。弱音も吐き難い。想像してみただけでも、とてもそんなリスクはとれない。それに対し、2人きりの密室での本音のコミュニケーションは、居心地がいい。
ただしこれは、FacebookやTwitterに一度ハマったことで、むしろ気づけることでもあるのだが。