フォロワー18万人超!仏教の視点をもって、国内外の方々から寄せられた「人間関係」「仕事」「恋愛」「健康」などの相談に応える YouTube チャンネル「大愚和尚の一問一答」が人気爆発。
「実際にお寺に行かなくてもスマホで説法が聞ける」と話題になっています。
その大愚和尚はじめての本、
『苦しみの手放し方』が、発売になりました。
大愚和尚は、多くのアドバイスをする中で、
「苦しみには共通したパターンがある」「多くの人がウソや偽りを離れて、本当の自分をさらけ出したいと願っている」「苦しみを吐き出して可視化することによって、人は少し苦しみを手放すことができる」ということに気づいたといいます。
そんな和尚の経験をもとに、この連載では
『苦しみの手放し方』から、仕事、お金、人間関係、病気、恋愛、子育てなど、どんな苦しみも手放せて、人生をもっと楽に生きることができるようなヒントになる話をご紹介していきます。

【大愚和尚】挨拶とは、何のためにやるのか?

挨拶は、
「相手と争わないための最善の知恵」である

 お寺では、幾度となく、「合掌低頭(がっしょうていず)」をする場面があります。
 合掌とは、両手のひらを顔や胸の前で合わせて拝むこと。
 低頭とは、頭を低く下げて礼をする(お辞儀をする)ことです。
 私はこの、「合掌低頭」こそ、挨拶の完璧な型であると考えています。

 禅宗では、問答を交わすことで相手の覚(さと)りの深浅(しんせん)(相手がどれくらい覚りを理解しているか)を試みることを「一挨一拶(いちあいいっさつ)」と言います。この「一挨一拶」が挨拶の語源です。
 中国の禅の公案集(禅の問答集のこと)のひとつ、『碧巌録(へきがんろく)』には、「衲僧門下(のうそうもんか)に至っては、一言一句、一機一境、一出一入、一挨一拶に深浅を見んことを要し、向背を見んことを要す」とあります。
 「禅坊主の一門では、ひとつひとつの言葉、ひとつひとつの動作、ひとつひとつのやりとりを通して、相手の覚りの深浅を見極めようとし、正しく向いているか、背いているかを見抜こうとする」
 といった内容です。

 「挨」には、「迫る」、「拶」には「切り込む」という意味があります。鋭い問いをもって相手の力量を試みるのが、「一挨一拶」です。
 迫る、切り込む、相手を試すという姿勢には、温かみや親しみを感じないかもしれません。ですが、「一挨一拶」には、「心と心をぶつけ合う」「心を開いて接する」という、相手への好意が含まれています。

 日本の合掌低頭も、西欧のハグも握手も、他人と争わないための知恵の作法です。
 握手やハグは、元来、「武器を隠し持っていないことを伝える意思表示」だったといわれています。
 同じように、仏教における合掌低頭も、
 「私はあなたを受け入れる」
 「私はあなたに敵意を持っていない」
 ことを伝える所作です。
 「低頭」という行為には、無防備な状態で自分の頭を差し出すことで、相手への信頼を示す意味があります。

 そして「合掌」は、「仏様と自分が一体になる」という祈りの姿です。右手は仏様(清浄)、左手は自分自身(不浄)の象徴です。
 目の前の人に合掌するときは、右手が相手(清浄)、左手が自分です。今連載の第4回でも述べているように、世の中のすべての人たちが、自分を導く「師」なのですから、手を合わせてお辞儀をするという行為は、
 「あなたと私は、相反する存在ではなくて、一緒の存在です」
 「私は、あなたに心を開き、あなたを受け入れます」
 「私の仲間として、友として、私の中にあなたを認めます」

 という友好の気持ちを体現しています。

 霊長類において、同種間で殺し合うのは、ヒトとチンパンジーだけだといわれています。チンパンジーが同種殺しを行うのは、配偶相手や資源をめぐる適応的行動の結果です(参照:京都大学ホームページ/2014年9月29日/霊長類研究所の松沢哲郎教授らとミネソタ大学のマイケル・L・ウィルソン准教授らの研究成果)。
 残念ながら、ヒト(人間)も、自分の欲のためならば、他者を犠牲にしてもいいという精神を持っています。
 しかし人間がチンパンジーと違うのは、「同種間での殺し合い」の愚かさに気づき、人間の知恵の集積として「宗教」を生み出し、争いをやめようとしたことです。
 そして、「争わない」という意思表示として、仏教では「合掌」をするようになりました。

 私は大学時代に、日本人医師のグループに同行し、ミャンマー(当時はビルマ)を訪れたことがあります。
 10日間の滞在期間中、ホテルの不備、不衛生な食環境、盗難といったトラブルが相次ぎ、医師グループの不満が爆発。非難の矛先は、現地のコーディネーター(ミャンマー人女性)に向けられました。
 彼女は、不平不満を浴びせられるたび、合掌し、「わかりました」と言って、そのすべてを引き受けました。冷静に考えれば、彼女の責任ではありません。それなのに彼女は、反論も、言い訳もしませんでした。
 はじめは怒りを隠さなかった日本人医師たちも、やがて、彼女の真摯な姿勢に冷静さを取り戻し、彼女に「ありがとう」と合掌低頭するようになりました。

 敵対するのではなく、一緒に分かち合う。合掌低頭は、人間自身が生み出してきた、「相手と争わないための知恵の象徴」です。
 「おはようございます」「ありがとう」「いただきます」と挨拶をするとき、日常的に合掌低頭をしてみてはいかがでしょうか。
 はじめは照れくささや恥ずかしさを覚えるかもしれませんが、合掌低頭が習慣になったとき、相手を受け入れ、相手からも受け入れられる人間関係が醸成されると思います。

(本原稿は、大愚元勝著『苦しみの手放し方』からの抜粋です)