フォロワー18万人超!仏教の視点をもって、国内外の方々から寄せられた「人間関係」「仕事」「恋愛」「健康」などの相談に応える YouTube チャンネル「大愚和尚の一問一答」が人気爆発。
「実際にお寺に行かなくてもスマホで説法が聞ける」と話題になっています。

 その大愚和尚はじめての本、
『苦しみの手放し方』が、2月19日配本になります。
 大愚和尚は、多くのアドバイスをする中で、
「苦しみには共通したパターンがある」「多くの人がウソや偽りを離れて、本当の自分をさらけ出したいと願っている」「苦しみを吐き出して可視化することによって、人は少し苦しみを手放すことができる」ということに気づいたといいます。

 そんな和尚の経験をもとに、この連載では
『苦しみの手放し方』から、仕事、お金、人間関係、病気、恋愛、子育てなど、どんな苦しみも手放せて、人生をもっと楽に生きることができるようなヒントになる話をご紹介していきます。

【大愚和尚】「悪口を言う人」から逃げずとも、「悪口」は、いずれ過ぎ去る

自分の心の中に「検問所」を設ける

 お釈迦様は、迷いや苦しみから逃れる方法のひとつに、「耐え忍ぶこと」を挙げています。
「耐え忍ぶ」とは「我慢する」ことではありません。「我慢」は、もともと仏教の言葉です。
 七慢ある慢心[おごり高ぶる煩悩(ぼんのう)を7種に分けたもの。慢(まん)・過慢(かまん)・慢過慢(まんかまん)・我慢(がまん)・増上慢(ぞうじょうまん)・卑慢(ひまん)・邪慢(じゃまん)の総称]のうちのひとつで、「我に慢心を抱いた状態」を表します。
 我に執着しすぎて、うぬぼれ、おごり高ぶり、強情で他を見下した状態が「我慢」です。

 現在、「我慢」は、「辛いことや悲しいことを、耐える」という意味で使われていますが、 この「辛いことを苦しみながら耐える」という態度も、「この尊い私の悪口を言われたくない」という、我に対する自己愛からくるものです。
 仏教の「耐え忍ぶ」姿勢は、こうした「我慢」とは違います。
 自他の感情に過剰反応して振り回されるのではなく、その悪口の由緒と理由、そして自分に起きている状況を真実の眼を見開いて観察するために「耐え忍ぶ」のです。
 暑さ、寒さ、飢え、渇きを耐え忍び、罵りや謗りを受けても耐え忍ぶ。そうすれば、迷いや苦しみの元である「煩悩」から逃れることができるのです。

 お釈迦様が、コーサンビーという町に滞在していたときのことです。お釈迦様に恨みを持つ人物が、町の悪者を買収して、お釈迦様の悪口を広めました。
 その結果、お釈迦様は人々から煙たがられ、弟子たちが托鉢(たくはつ。鉢を持って人家を回り食べ物を乞うこと)をしても、食べ物も得ることはなく、お布施もなく、ただ罵(ののし)られるだけでした。
 弟子のひとり、アーナンダは、お釈迦様に提言をしました。
「こんな町に滞在することはありません。ここよりも、もっと良い町があると思うので、そちらへ移りましょう」
 お釈迦様がアーナンダに、
「次の町でも、この町と同じだったらどうするのか?」
  と尋ねると、アーナンダは、
「また、別の町に移ります」と答えました。するとお釈迦様は、次のように、アーナンダを諭したのです。

 「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。私は謗りを受けたときには、じっとそれに耐え、謗りが終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏(覚りを開いた者)は、利益、害、中傷、誉れ、讃え、謗り、楽しみ、苦しみという、この世の中の8つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るだろう」(参照:『仏教聖典』/仏教伝道教会)

 先日、幼稚園の保護者との人間関係で悩んでいるという女性(C子さん)から、ご相談をいただきました。C子さんは、「幼稚園のママ友付き合い」に疲れていました。ママ友数人が、「自分の陰口を言っている」ことに気がついてしまったのです。
 しだいにママ友仲間から孤立するようになり、「引っ越しをしたい」「子どもを別の幼稚園に転入させたい」とまで、思い詰めていました。

 私はC子さんに、「耐え忍ぶ」という解決策があることをお伝えしました。
「いつまでも陰口を言われ続ける」と思うと、心が動かされてしまう。けれど、お釈迦様は、「中傷も、謗りも、苦しみも、間もなく過ぎ去る」ものだとおっしゃっています。
 悪口を言う人にも、悪口を言う理由があります。
 その理由は、他人への妬みや、体調不良、鬱憤バラシなどの一方的なものなのかもしれません。あるいは、愚かで噂好きな人たちの話のネタにされたのかもしれません。
 悪口を言われる人にも、悪口を言われる理由があります。
 知らず知らずのうちに、自分が誤解されているのかもしれません。ひょっとしたら、自分に悪口を言われるような態度や落ち度があったのかもしれません。いずれにせよ、悪口がどこから生まれたのか理由を冷静に観察して見極めることです。
 見極める際に大切なことは、自分の心の中に「検問所」を設けることです。たとえば、国境には検問所(出入国審査)があります。誰でも自由に出入りさせてしまうと、善意を持った者だけでなく、悪意の者も入ります。それと同じように、心の中にも検問所を設けるのです。そして、「なぜ、悪口を言われているのか」を落ち着いて観察します。
 自分に原因があるなら、それを反省してあらためるべきですし、悪口の原因が「悪口を言っている側」の問題であるのなら、無理に関わりを持たず、なすべきことと、あるべき態度を保って堂々と振る舞う。そうすれば、やがて悪口は去っていきます。
 起きている出来事に過剰反応をして、すぐにその場から逃げてしまうことは、家庭にとって大きな負担にもなりますし、また、子どもにとっても、問題がどこからきたのかよく確かめないまま、「ただ嘆いているだけの愚かな親」の後ろ姿を示すことになってしまいます。
 人間はひとりで生きていくことはできません。必ず、他人との関係の中で生きていくわけですから、この機会に、人間と人間との関係について学ぶことが必要です。それをせずに、次へ行けば、また次で同じようなことを繰り返してしまうでしょう。

 自分に覚えがないことで悪口や陰口を言われると、自分に非がなくても逃げ出したくなります。
 でもそのときこそ、自分の心の動きを冷静に見つめ、心を落ち着ける。「人として善よく生きるための正念場である」と自覚すべきだと私は思います。

(本原稿は、大愚元勝著『苦しみの手放し方』からの抜粋です)