それから7年後の53年に、盛田は3カ月に及ぶ初の海外出張を経験する。米国やヨーロッパを歴訪し、オランダではフィリップスの工場を見学、世界最先端の技術と豊かな消費市場を目の当たりにした。盛田はこの体験を経て、海外進出を決意したという。
当時、すでに東京通信工業は日本初のテープレコーダーと、磁気録音用テープ「ソニ・テープ 」を発売(50年)しており、ここから「SONY」というブランド名が生まれた。独創的で人目につき、ローマ字表記ができて、世界の誰でも発音できるといった条件から付けられた名前だ。そして、57年に当時世界最小のトランジスタラジオ「TR-63」を開発すると、本格的に輸出を開始。翌58年には社名そのものをソニーに改めた。
60年にソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを米ニューヨークに設立すると、盛田は社長に就任する。翌61年には日本企業として初めて米国証券市場で新株を発行し、その後もスイス、香港、英国、ドイツ、フランスと海外販売子会社が続々と設立されていく。63年10月期には輸出比率が50%を超え、ソニーは「国際企業」としての地位を固めていった。
今回は、そんな「元祖グローバル企業」を創り上げた盛田への、67年のインタビューである。「日本の経営者は国際レベルか」という特集内で掲載されたものだ。経営者とは競争に勝つことが使命であり、そこには日本も外国もないと盛田は述べている。ところが、競争に勝つためには何をすべきかという姿勢に、日本の経営者には甘さがあると暗に指摘するのである。
それにしても、21世紀に入り20年がたった現在でさえ、この国では「ドメスティック人材」と「グローバル人材」といった比較や、「国際社会で通用しない日本特有の企業文化」といった話題が頻繁に取り沙汰されていることを、盛田は草葉の陰でどう眺めているだろうか。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
“競争”に勝つには
敵を知り、おのれを知る
1967年10月1日号より
日本と外国では、人情とか、人間の慣習などが確かに違う。しかし経営の本当にあるべき姿は変わらないと思う。
言うまでもなく、経営者というものは日本、外国を問わず、自分の会社を率いて競争していくものである。
まして自由経済は、“競争”を前提とした社会機構である。“競争”が前提となる以上、やはり勝たねばならない。勝たなければ敗残者になるだけである。