非難の「行き過ぎ」はなぜ起こるのか?

 なぜ、こうした「行き過ぎ」が起こるのか。作家のスーザン・ソンタグが興味深い指摘をしていた。すなわち「ひとつの謎として強く恐れられている病気は、現実にはともかく、道徳的な意味で伝染するとされることがある」と。これは、ウイルスの病態や致死性も恐ろしいが、患者になってしまった人を悪や邪という価値に結びつけることも恐ろしい、という警句だ

 ソーシャルディスタンスは本来、「お互いが感染しないように」「感染リスクを避けるために」意識されるべきものである。それは、良心のもとにとられることもあるが、他方で相手を攻撃するための「口実」としても利用できてしまう。自粛要請から逸脱した人や感染してしまった人に抱かれる不安、嫌悪感にプラスして、「2メートル以上」等の“基準”に照らせるソーシャルディスタンスという観念によって、相手を道徳的な「悪」と断じることができてしまう。そして言葉の暴力、ひどいときには物理的な暴力を振るえてしまう。

 この話は、国境線を例にとればわかりやすい。国境線は物理的には存在しない。しかし観念として、心の中に想像的には「ある」。そして国境線は、手につかんだり蹴ったりすることもできないにもかかわらず、争いの種になりつづけてきた。“存在しない線”をめぐる戦争は枚挙にいとまがない。

 また人は、民族や身体的特徴といったさまざまな面に違いを感じるもので、それが時に差別といった問題を引き起こす。「外国人/日本人」「健常者/障害者」「集団内の人/外の人」といった区別がその問題を厄介にしている。これらも、ただの観念だ。あたかも「長い」がなければ「短い」も存在し得ず、「比べる」という関係が生じてはじめて長短の意味が機能するように、日本人という観念があってはじめて外国人が生じ、障害者がいてはじめて健常者が生じる。だが、この関係性の観念が、人を悩ませ、苦しみへと人をつないでいる。

 問題は何か。それは、観念を実体視することだ。物理的に存在しない、ただ機能するだけの観念がまるで“実物”ででもあるかのように見ることだ。そこへのこだわりが、「外国人/日本人」「健常者/障害者」「集団内の人/外の人」といった関係性の観念を「区別」以上のものに変えてしまう。