新型コロナの「わかりにくさ」が疑心や攻撃性につながる

 現在、Social Distancingは社会的規律と言ってよいレベルで推奨されている。多くの日本国民はソーシャルディスタンスを意識し、行動を起こしている。

 それは、政府行政から要請されているからだという理由もあるだろうが、一方で新型コロナへの不安や恐怖を解消したいという思いも反映されていると思う

 周知のとおり、新型コロナにかかった人の大半は軽症か無症状で済む。悩ましいのは、罹患しても生活が送れてしまう人が多い点だ。感染者とそうでない人の見分けがなかなかつかない。そのため、街を歩くそこの人、あの人も「新型コロナかも?」と、疑おうと思えば疑えてしまう。

 この疑心は、1665年、ロンドンのペスト禍を体験したダニエル・デフォーが描いた大衆の心情に近い。すなわち「実は疫病にかかっていたらしいのに、それを知らないまま外出し、健康な人のように歩きまわる人がいれば、ペストを無数の人びとにばら撒くことになるだろう」。だから「市民が他人をなるべく避けるようになり(中略)街なかで誰と接していたか分からない者は決して家に入れず、近づくことさえ許さなくなった」と。

 今から1ヵ月ほど前、マスクをせず電車内で咳をした人に周囲から向けられた、刺すような視線を思い出す。

 不安や恐怖に直面した時、人は警戒心と攻撃性を増幅する。また、たとえば「2メートル以上離れる」といった基準を守らない人を見た時に何となく抱かれる嫌悪感が、他者への責めに転化してしまうこともある

 実際に、今も「感染者叩き」が世界的な問題になっている。人種や国籍などに絡めた「コロナヘイト」と呼ばれる現象はその一例だ。新型コロナが中国発祥と喧伝されているゆえに、各地で一部アジア人が暴力にさらされた。

 日本でも、外出や営業の自粛に応じない人や店舗に対して私的取り締まりを行う等の行き過ぎた自粛監視を実施する人々(「自粛警察」「コロナ自警団」等と呼ばれる)が問題になってきた。営業を継続する店に嫌がらせの貼り紙がなされたり、感染者の家に石が投げ込まれるなどの事件なども起きている。

 京都の大学で集団感染が発生し、抗議や苦情の電話・メールが殺到したのはその過剰の典型だ。なかには「大学に火をつけるぞ」「殺すぞ」という予告や、同大の学生が飲食店の入店を断られたり、アルバイトをクビになるケースもあったという。