SaaSの判断指標「40%ルール」

小林:「収益性か成長性か」という概念が特に意識されるようになったのは、SaaSが普及したことにも一因があるのではないでしょうか。SaaSは、当該領域におけるWinner Takes All型のプレイヤーが出やすい産業構造。言い換えると、後発プレイヤーが勝ちにくい産業構造です。

その背景として、高いスイッチングコストがあります。ある領域で、先行プレイヤーが広くユーザーを獲得すると、後発プレイヤーはスイッチさせにくいということですね。市場シェアが高く、TAMの大部分を獲得できている状態であれば、高い収益性が期待できます。このような構造のビジネスの場合、より成長性を重視する意味があるということだと思います。

村上:そうですね。先ほどの4点の整理でSaaS型の事業について確認してみましょう。まず1点目について、SaaSはWinner Takes Allが成立しやすいと言って良いでしょう。2点目の市場規模に関しては対象とする業界にもよるので、一概には言えません。

3点目のスイッチングコストについて、SaaSではチャーンレート(解約率)が注目されますが、それは、チャーンレートが低ければスイッチングコストが高いはずだという類推が成り立つからでしょう。4点目の収益性に関しては、SaaSビジネスは粗利が非常に高い事業が多い。

まとめると、総じてSaaSは、先行投資して成長した先に、大きな利益創出が担保されやすいビジネスモデルであると言えるんじゃないでしょうか。一方、米国の投資家の間では、SaaSビジネスの成長性と収益性のバランスを確認する指標として「40%ルール(「年間の売上高成長率と営業利益率の合計が40%以上である状態を健全とする目安」)」という水準が共有されています。

この40%という数値は、先述した高いスイッチングコストと高い収益性を前提としても、なお、このくらいの数値は出して欲しいという、経験則に基づいた水準なのでしょう。

朝倉:この「40%ルール」を実現するパターンには幅があります。成長率は前年比100%だが利益率はマイナス60%という赤字のケースもあれば、成長率20%、営業利益率20%のケースもある。実態は全く異なりますがどちらも「40%ルール」はクリアしている。

T2D3(Triple, Triple, Double, Double, Double:売上の成長率が2年連続で3倍、3年連続で2倍を達成している状態。優れたSaaS事業の目安)の過程にある会社でいうと、200%の成長率で利益率はマイナス160%といった状態も許容され得るということですね。

小林:成長率と利益率のバランスを見るべきだという考え方が、わかりやすく一つの式に表現されているため、この「40%ルール」という相場観が確立したのでしょう。

成長にアクセルを踏む前に検討すべきこと

朝倉:成長率と利益率の間には、トレードオフ的な緊張関係もあります。特に難しいのは、どのタイミングであれば、大きな赤字を許容して成長を加速させる戦略に舵をきっていいのか、という点でしょう。

例えば、プロダクト・マーケット・フィットも成立していないうちから、拡大路線をとって一気に顧客獲得を推し進めたところで、顧客が定着しなければ、底の抜けた器にずっと水を流し込んでいるような状態になります。CAC(顧客獲得コスト)はかかる一方で、どんどんユーザーが抜け落ちていき、LTV(顧客生涯価値)も下がっていってしまう。

先ほど挙げた4つの観点を満たすような産業構造の場合、成長性を重視する合理性が高まるという話をしましたが、これはあくまで、ユーザーに支持されるプロダクトが確立した上での話です。

村上:その通りだと思います。チャーンレートが高く、スイッチングコストが低い段階、つまり、プロダクト・マーケット・フィットがまだ成立しておらず、競争力が十分ではない状態で成長を優先するのは、非常にリスクの高い判断でと言えるでしょう。

4つの観点のうち、収益性については、特にソフトウェア産業であれば、比較的早い段階で明らかになりますし、判断しやすい要素だと思います。

一方、TAMについては慎重な検討が必要でしょう。TAMが10兆円ある産業だと言いながら、客観的に見ると、そのプロダクトで獲得できる現実的なTAMは100億円程度、というケースはままあります。こうした状態でアクセルを踏んでしまうことは非常に危険です。

4つの観点の内、特にTAMとスイッチングコストに関しては謙虚に検討したほうがいいと思います。これらの確度が高まってきたときが、アクセルの踏み時なのかもしれません。

小林:スイッチングコストに関して、最近の事例で面白いと感じたのがSlackの事例です。Slackはビジネスチャットとして圧倒的なシェアを持っていると見られた時期がありましたが、後発のマイクロソフト社のTeamsにDAU(Daily Active User)を追い抜かれました。

TeamsはOffice製品との抱き合わせ的な面もあるので、若干ボーナスめいたところもあるかもしれませんが、いずれにしても当初の想定とは異なり、後発に追いつかれ、追い抜かれてしまうということは実際に起こり得ます。

朝倉:別の視点ですが、成長性を重視するケースで、KPIを、売上や粗利ではなく、顧客数や導入社数に設定している場合も注意が必要でしょう。

顧客数や導入社数は伸びていて、KPIだけ見ていると成長しているように見える場合でも、実はずっと無料で導入されていて、有料転換しようとした途端にユーザーが抜けてしまうといったことも起こり得ます。先ほどの「40%ルール」の話題でも言及しましたが、その数値の裏側にある実態がどうなっているかを把握する必要があります。