僕は「ソフト」ではなく、「ビジョン」を売っていた

 僕が大物経営者ともお付き合いできるのは、マイクロソフトという“後ろ盾”があるからだ、という人もいた。

 もちろん、そのとおりだ。NECの「PC-8001」の大ヒットによって、誰もがマイクロソフトBASICを欲しがったからだ。ただし、僕は、単なるマイクロソフトBASICの営業マンではなかったと思う。

 当時の僕は、日本にいるときは、ほとんど毎日接待をして、ブクブクに太って、肝臓まで悪くした。なぜそこまでやったか? もちろん、美酒美食を楽しみたいからではない。僕が、あれだけ頑張れたのは、マイクロソフトBASICを売っているのではなく、パソコンの設計を売っていたからだ。自分なりに思い描いていた「理想のパソコン」「売れるパソコン」を実現したい一心で、パソコンの設計を売っていたのだ。

 それはただの妄想ではなかった。僕は、確かな裏付けのある「ビジョン」を売っていた。しかも、そんな話をできるのは、当時の日本には少なかったはずだ。その意味で、あの時の僕は尖がった存在だった。だからこそ、名だたる経営者も一流のエンジニアも、たかだか20代の若造の話に耳を傾けてくださったと思うのだ。

 では、僕が売っていたビジョンの「裏付け」とは何か?

「情報」と「人脈」である。どんな分野の仕事でもそうだと思うが、新しい技術を追求したり、新しいモノを生み出したりするときには、その分野に存在する人脈の中に入っていなければならない。しかも、その分野における「本場」の「本物」の人脈でなければダメだ。そうでなければ、最先端の情報が入ってこないからだ。最高の価値をもつ情報は、「人」を介してもたらされる。「人脈」とは情報ネットワークなのだ。

 そして、コンピュータの「本場」は、発祥の地であるアメリカにほかならない。そして、当時の日本の大手メーカーは、大型コンピュータの分野では、アメリカの情報ネットワークに深く入り込んでいた。しかし、この情報ネットワークは、パソコンという新しい分野には生かされなかった。パソコンは、パソコン独自のエンジニアのネットワークの中から生まれたからだ。

「人脈」がもたらす「情報」こそが力の源泉

 その象徴がIBMだ。

 IBMは、大型コンピュータの”巨人”だった。しかし、その大型コンピュータがもたらす利益が莫大だったからこそ、パソコンへの参入が遅れた。のちに、IBMのパソコンを生み出したのは、当時の花形部門からはかけ離れた傍流にあった”社内ベンチャー”のチームだったのだ。

 そして、彼らは、大型コンピュータの情報ネットワークから外れて、マイコン・ブームの中から生まれてきた「ガレージ企業」の情報ネットワークにアクセスすることによって初めて、IBMパソコンを生み出すことに成功するのだ。

 本場のアメリカの巨人IBMですら、そのような状況だったのだ。当時の日本メーカーが、いくらアメリカに社員を送り込んでも、パソコンの「情報」を集められなかったのは当然のことだった。大型コンピュータの情報ネットワークの中で、いくらパソコンの「情報」を求めても徒労に終わる運命だったのだ。

 だからこそ、僕に「価値」が生まれたのだろうと思う。

 あのとき、本場アメリカの情報ネットワークの「入り口」に立っていた日本人は、少なかった。僕は、アスキーを創業する前(ビル・ゲイツと出会う半年以上前)から、アメリカの情報ネットワークへのアクセスを続けていた。そして、その情報ネットワークから、常に最新の「情報」をインプットし、その情報をもとに「理想のパソコン」のビジョンを描いていた。だからこそ、僕の提案には魅力があったのだと思う。

 しかも、僕と組めば、本場の情報ネットワークへのアクセス権も手に入るのだ。パソコン市場への参入を急ぐ経営者や一流エンジニアが、僕の話に耳を傾けて、その提案を受け入れてくださった最大のポイントは、ここにあったのだと思う。つまり、「人脈」とそれがもたらす先端の「情報」こそが力の源泉だったのだ。

20代の若者でも、ビジネス界の“超大物”と対等に付き合う「武器」とは?【西和彦】西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo