遊びのような「仕事暮らし」

 あまりにも疲れて、商談中に寝てしまうこともあった。

 徹夜でソフトの試作品を作り上げて、シアトルから日本に飛んで帰ったその足で、クライアントにその試作品を持ち込んだときのことだ。試作ソフトを入れたパソコンを広いテーブルの真ん中に置いて、操作しながらクライアントに機能を説明するわけだが、興が乗ってくるとどんどん前のめりになる。気がつくと、靴を脱いでテーブルのうえに座って話していた。

 その熱意が届いたのか、プレゼンの最重要ポイントについてはご理解いただけたようだ。ホッとして、「あとは、別の者が説明します」と言って、同行していたメンバーにバトンを渡した。すると緊張がほどけたのか、急激に眠気が襲ってきた。思わず、「ちょっと失礼します」と言って、床に寝っ転がって眠りに落ちた。

 アメリカのIBMでも寝たことがある。あとで詳しく書くが、IBMに「MS-DOS」を売り込む、マイクロソフトの社運がかかった重要な交渉をしていた頃のことだ。このときも、MS-DOSの開発で昼も夜もなく働き詰めだった。そして、IBMとの会議で一通りの話が終わったところで、急激な眠気に襲われて、自分で隣の会議室に行って寝てしまった。

 そんな調子だったから、日本で「新人類の代表」のように扱われたのも仕方のないことだったんだろう。「新人類」とは、1980年代に流行った、「従来とは異なった感性や価値観、行動規範を持っている若者」といった意味合いの言葉である。決して褒め言葉ではなく、揶揄まじりの言葉だった。

 でも、そんなこと言われても困ってしまう。僕はただ、必死で毎日生きていただけだ。目が覚めたら、脳はいきなりフル稼働。10時間でも15時間でも仕事に没頭して、脳のスイッチがプチッと切れたら眠る。そんな感じだったのだ。ちょっと、コンピュータに似ていたのかもしれない。

 膨大な仕事を同時並行で進めていたから、覚えておかなきゃいけないことも山ほどあった。ところが、僕は子どもの頃から「暗記」が大の苦手。今のUSBみたいな記憶媒体を作って、脳味噌に突っ込めたらいいなぁ、と本気で考えたこともある。それほど忙しかったのだ。今、東大で「プロジェクト・マネジメント」を教えているが、そのエッセンスはこの時期に培ったものだ。

 しかし、当時はとにかく仕事が楽しかった。

 やった仕事はうまくいく。やればやるだけ業績は上がる。注目は集める。忙しい、楽しい。仕事と遊びの区別のない、遊びのような仕事暮らしだったが、それが楽しかった。何も言うことはなかった。

大社長が「若造の話」に耳を傾けた理由

 この頃、僕は日本の主要メーカーの一流のエンジニアと生意気な話をし、名だたる経営者とも膝を交えて話をさせていただいていた。

 NECの関本忠弘社長、富士通の山本卓眞社長、ソニーの盛田昭夫社長、松下電器(現パナソニック)の城阪俊吉副社長、京セラの稲盛和夫社長、キヤノンの酒巻久社長……。若い人にはわからないかもしれないが、みなさん当時の日本を代表する経営者だった。そんな方々も、僕の話に耳を傾けてくださったのだ。たかが、20歳そこそこの若造なのに、だ。ありがたいことだった。

 年配の経営者に可愛がってもらっているように見えたのだろう。

 僕のことを”じじ殺し”と呼ぶ人もいた。たしかに、僕は年配の経営者の方々にたいへん可愛がっていただいたと思うし、そのことには心の底から感謝している。しかし、別に”じじ殺し”をしようなんて思ったことは一度もない。そもそも、僕は人に媚びることができない。どんなに偉い人が相手であっても、誰かに媚びるようなことができないのは、むしろ僕の欠点かもしれないと思うくらいだ。

 それに、大物経営者に限らず、仕事で人と会うときはいつも緊張していた。毎回毎回が真剣勝負だと思っていた。大事だと思うのは、相手のことを尊敬して謙虚にぶつかっていくという姿勢だ。貴重な時間を割いて会ってくださるんだから、感謝の気持ちを忘れたらいけないと思う。

 ただ、緊張してたら交渉なんてできない。だから、「失敗したらどうしよう」なんて思わないようにする。というか、そんな心配が消えるまで準備する。自分がプレゼンする内容を考えるときに、「相手はどう思うか?」「何を疑問に思うか?」という想定問答を何時間もかけて徹底的にやっていた。されると予想できる質問の答えを100通りは考えた。その答えを全部用意してから、訪問していたのだ。

 そこまでやっておけば、相手がどんな大経営者でも、やりとりに余裕が生まれる。余裕がもてたら、こっちの勝ち。質問されても、「来たー」みたいな感じ。それで、相手の疑問、疑念を払拭できたら、OKが出る。そういうもんだ。