『発達障害サバイバルガイド──「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47』5万部のベストセラーとなっている、ADHD(注意欠如・多動症)当事者の借金玉さん。まだ34歳だが、その生い立ちは「ジェットコースター」という言葉がぴったりの、波乱万丈な内容だ。
発達障害を誰にも理解してもらえないまま、不登校を繰り返してきた小中高校時代。「このままじゃヤバい」と一念奮起して早稲田大学に進学し、大手金融機関への就職を果たした大逆転時代。しかし結局「普通」の仕事がまったくできずに退職し、起業にも失敗した「うつの底」時代……。
30歳の頃には、死ぬことばかり考えて「毎日飛び降りるビルを探していた」借金玉さんが、どん底から脱することができた理由。それは、生活、そして人生を立て直す「再起」のテクニックをひとつずつ身につけていったからだった。
子ども時代から「普通」や「あたりまえ」のことができなくても生きていくために、本人・親ができることは何なのか? 借金玉さんに話を聞いた。
(取材・構成樺山美夏、撮影疋田千里)

「忘れ物ランキング」ぶっちぎり1位

――借金玉さんが、「普通」や「あたりまえ」のことができないとはじめて自覚されたのは、いつ頃だったのでしょうか。

借金玉 小学生の頃からずっと不思議だったんです。「なんでみんなお道具箱を整理したり、学校でもらったプリントを親に見せたりできるんだろう?」って。僕は何ひとつできなくて、先生が作った「忘れ物ランキング」でもずっとぶっちぎりの1位でした。

 そのうち先生もあきれて叱られることもなくなり、友だち関係もうまくいかず、そもそも朝起きられなかったので、学校に行かなくなりました。今振り返ると、あの頃すでにうつを発症していたので、正しくは「学校に行けなくなった」んですね。両親も明らかにおかしいと思ったみたいで、精神科に連れていかれました。

――今から20年以上前だと、「発達障害」についてまだ一般に認知されていませんでした。

借金玉 あまりにも辛かったので、正直当時のことは記憶があいまいなのですが……病院では、双極性障害の診断が出ました。小学4年から6年まで、ほとんど学校に行っていません。

 処方された薬を毎日飲みながら、家で本ばかり読んでいました。親が「飾る」ために買った、誰も読んでない文学全集が家にあったんです。当時はとにかく、本を読むことだけが救いでした。

 でも、中学生になった頃から自我が芽生えてきて、「グレる」ってことを覚えたんです。「グレる」のはすごく社会性があることで、いつも友だちとたまったりしているだけで仲間意識が強くなるんですよ。しかもグレてる子たちは、「言われたことをやらない」とか、「先生の言うことを聞かない」ことがアイデンティティなので、その集団にくっついていると少し楽になれたんですね。「そうだ、俺もグレてるんだ!」と思って、行動規範を不良に近づけると、ひとつの社会の一員になれた気がしたので。

――帰属意識を持てる居場所があったから、家に引きこもらずにすんだわけですね。

借金玉 柔道部に入っていて体も大きかったので、不良カルチャーの中でナメられずにすんだのも良かったと思います。「いざとなったらぶん殴る」という手段を使えましたから。

 ただ不良仲間とつるんでいると、だんだん上下関係がめんどくさくなってきて。「何々先輩が怒ってるぞ」とか、「あの先輩とすれ違ったら挨拶しないとボコられるぞ」とか、文脈がイマイチわかんないんですよ。だから中学時代も半分は学校を休んでいました。それでも卒業できたから、義務教育って素晴らしいですよね。

借金玉(しゃっきんだま)
1985年、北海道生まれ。ADHD(注意欠如・多動症)と診断されコンサータを服用して暮らす発達障害者。二次障害に双極性障害。幼少期から社会適応がまるでできず、小学校、中学校と不登校をくりかえし、高校は落第寸前で卒業。極貧シェアハウス生活を経て、早稲田大学に入学。卒業後、大手金融機関に就職するが、何ひとつ仕事ができず2年で退職。その後、かき集めた出資金を元手に一発逆転を狙って飲食業界で起業、貿易事業等に進出し経営を多角化。一時は従業員が10人ほどまで拡大し波に乗るも、いろいろなつらいことがあって事業破綻。2000万円の借金を抱える。飛び降りるためのビルを探すなどの日々を送ったが、1年かけて「うつの底」からはい出し、非正規雇用の不動産営業マンとして働き始める。現在は、不動産営業とライター・作家業をかけ持ちする。最新刊は『発達障害サバイバルガイド──「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47』

「教育」の難しさ……二次障害のリスク

――親御さんとはどういう関係だったんでしょうか。

借金玉 僕にとっては、父親の存在は本当にきつかったですね。父親は、社会的にみるとすごくまともな人間なんです。仕事もできて社交的で、やるべきことをちゃんとやっているという意味では、父親像としても高い点数をとれると思います。だからこそ、「普通」ができない人間のことをまったく理解できなかった。

「お前はサボってる! ちゃんとやれ! ちゃんとやればできる!」――そんな風に、いつも怒られていました。

 当時はまだ、自分が発達障害だという自覚がなくて、「人ができることを自分はサボってしまっているんだ」という罪悪感もあったので、その罪悪感を消化できないまま父親に反発していました。だから、言い返すこともわけわかんないことになって、お互い感情のぶつけ合いになるから、親子関係はめちゃくちゃでした。

 けれども今振り返ると、親は親で間違いなく善意で行動しているし、必死なんです。なんとかしたくて。ただ、「なんとかしたい」の方向って難しいですよね。