IT黎明期に日本のみならず世界を舞台に活躍した「伝説の起業家」、西和彦氏の初著作『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。20代から30代にかけて劇的な成功と挫折を経験した「生ける伝説」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴ったのが『反省記』だ。ここでは、西氏が「世界初のノートパソコン」を開発した経緯を振り返りながら、「すごい発想」を生み出す方法についてまとめていただいた。

「すごい発想」は“考える”のではなく、<br />“組み合わせる”ことで生まれる。Photo: Adobe Stock

1980年代、日本から世界的イノベーションが生まれていた

 20代のころ、僕はマイクロソフトのボードメンバーとして仕事をするために、日本とアメリカを行き来する生活を送っていた。その機上でお目にかかった京セラの稲盛和夫社長に売り込んで実現したのが、ハンドヘルド・コンピュータだった(詳しくは連載第16回参照)。

 当時のパソコンはすべてデスクトップ型。まだノート・パソコンもない時代だったら、超小型のパソコンである「ハンドヘルド・コンピュータ」は、世界的に見ても非常にイノベーティブなものだった。

「すごい発想」は“考える”のではなく、<br />“組み合わせる”ことで生まれる。京セラがOEM生産して、アメリカのタンディ社が発売したハンドヘルド・コンピュータ「M100」。10年以上も販売され続けて、世界中で600万台を売り上げるメガ・ヒットとなった。

 特に、京セラがOEM生産して、アメリカのタンディ社から発売された「M100」というハンドヘルド・コンピュータは、10年以上も販売され続けて、世界中で600万台を売り上げるメガ・ヒットとなった。そして、世界的に見ると、このヒットによってハンドヘルド・コンピュータの歴史は始まったと言っていいだろう。

「M100」の後継機種をつくろうという話になったとき、僕は「ハードの厚みを半分にしよう」と提案が、この提案は採用されなかった。そして、タンディは、独自に後継機種「M200」を開発することになる。これは非常に残念だった。

 ただ、タンディには振られてしまったが、僕の頭の中では、「M100」の次のモデルのことがずっと気になっていた。「ポータブル・パソコン」のあるべき姿とは何なのか、ずっと考え続けていたのだ。