「旧皇居」に泊まれるって本当?奈良の山奥まで行ったら「マッカーサー参謀」の子孫がもてなしてくれた旧皇居こと、堀家住宅(同書より転載)

「旧皇居に宿泊できる」。そんな噂を聞いて、筆者が向かったのは奈良県賀名生の山奥だった。迎えてくれたのは、かの「マッカーサー参謀」として知られる大本営参謀・堀栄三の孫。そこには皇居のような華やかさはなかったが、観光地にはない貴重な文化財で溢れていた。※本稿は、辻田真佐憲『ルポ 国威発揚―「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。

後醍醐天皇が籠もった山奥に
今も皇居は残っていたが……

「旧皇居」に宿泊できる。そんな聞き捨てならない情報を得て、賀名生に向かった。

 賀名生は吉野山と並ぶ南朝の拠点だった。現在は奈良県南部の五條市に属する。JRの五条駅で下り、タクシーで丹生川に沿って紀伊山地を南下すること約20分。北東には吉野山があり、北西には千早城(楠木正成の城砦)があり、直線ではいずれも15キロほどなのだが、まったく目視することはかなわない。

 それほどまでに険しい山々に囲われた谷間であり、天然の要害である。

 建武の新政に失敗し、足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は、この賀名生を経て吉野山に入り、1336(延元元)年12月、南朝を開いた。つづく後村上天皇も、しばしばここに行宮を定めた。

 もともと穴生、穴太、阿那宇、加名生などと書かれた地名がいまの賀名生になったのも、尊氏の一時的な帰順により、京都回復という念願が「かなふ」と喜んだ同帝が、1352(正平7)年に改名を命じたためといわれる。

 できすぎた話だが、最終的に敗者となった南朝は確実な史料に乏しく、どうしても曖昧な伝承や遺物に頼らざるをえない。

 2006(平成18)年にオープンした、町屋風の観光拠点「賀名生の里歴史民俗資料館」に足を運んでみても同じことがいえた。