「すごい発想」は“考える”のではなく、<br />“組み合わせる”ことで生まれる。640x400フルサイズの液晶を使った、世界初のIBM互換ノートパソコン「Z-180」。
鳥取三洋電機が米国のZenith Data System社にOEMで納入した。

 僕は三井物産に相談した。そして、アメリカのゼニス・データ・システム社にOEMすることになった。最大の顧客はペンタゴン(アメリカ国防総省)で、数十万台売れたそうだ。そして、この後、すべてのメーカーが、同じ形態のノート・パソコンを作るようになった。

 僕は、このマシンが、世界で最初のノート・パソコンになったと思っている。少なくとも、あの時期、僕は、日本メーカーのみなさんとともに、世界のパソコン・ビジネスの最先端を走っていたと思う。そして、あの時期、日本発のイノベーションが世界に変化を促していたことを、複雑な気持ちで思い出すのだ。

すでにある「要素」を組み合わせることで、
イノベーションは生まれる

 もちろん、僕の“お手柄”だと言いたいわけではない。

 僕は、ソフトのプログラミングをやったわけではないし、ハードをつくったわけでもない。プログラミングもできるが、僕よりも優秀な人に任せたほうがいいに決まっている。ハードはなおさらだ。ハードの製造には莫大な設備投資が必要だから、僕自身が手を出していたら、とんでもない大失敗をしたに違いない。絶対に成功することはなかったと断言できる。

 僕が果たすことができたのは、格好よく言えば「プロデューサー」の役割だ。世界のパソコン・ビジネスの最新情報を常に摂取しながら、僕なりの「理想のパソコン」をイメージする。そして、「理想のパソコン」を作るためには、どうすればいいかを考える。

 ただし、ゼロから考えるわけではない。「誰」と「誰」を結びつけて、「あの技術」と「この技術」を結びつければ、できるんじゃないかと考える。つまり、すでに存在している「要素」を組み合わせるのだ。そして、僕は、それらが融合するように働きかける。すると、その「場」に集った方々が創造性を発揮されて、世界にも通用するイノベーションが生み出されたのだ。

 その意味で、規模は大きくなったが、やっていることは子どものときと変わらない。

 あの頃、僕は、自分の願望をかなえるために、家中の機械を分解して、部品を組み合わせて新しいものを作っていた。その発想法が、無意識的に生かされたのだろう。そして、そんな僕のアイデアに共感してくださり、力を貸してくださる方がたくさんいてくださったからこそ、僕は、パソコン・ビジネスの先端を走ることができたのだ。ほんとうに、ありがたいことだと思う。

「すごい発想」は“考える”のではなく、<br />“組み合わせる”ことで生まれる。西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo