デザインを中心に据えた「奇跡の会社」

 京セラとの仕事は、エプソンやキヤノンと併走しながら進められた。

 このプロジェクトの最大の特徴は、京セラによるOEM生産という点にあった。つまり、京セラの高い技術力によって高品質のハンドヘルド・コンピュータの雛形を作り、それを世界中のブランド力のあるメーカーに買い取ってもらう。そして、各社の販売ネットワークに乗せて、大々的に売り出していくというわけだ。

 このハンドヘルド・コンピュータの設計には3ヵ月かかった。

 僕とアスキー・マイクロソフトの天才的なメンバー山下良蔵さんと鈴木仁さんの二人で、寝る間も惜しんでやった。食事の時間ももったいないから、ハンバーガーとフライドチキンばっかり食べていた。最後は、もう見るのもイヤだったけど、それでも時間がもったいないから頑張って食べた。

 そして、京セラがハードを開発し、マイクロソフトがビル・ゲイツの陣頭指揮のもとソフトを書き上げた。販売契約は3社と結んだ。アメリカ向けはタンディ、日本はNEC。この2社は僕のツテで話をまとめた。ヨーロッパ向けは、京セラがイタリアのタイプライター製造会社・オリベッティと話をまとめてくれた。

 製品には、3社の要望を聞きながら、それぞれアレンジを加えた。

 面白かったのは、3社ごとに重視するポイントが違ったことだ。タンディは使い勝手と色を変え、

チャンスを掴む人が意識している「予定された偶然」とは?京セラとともにつくったハンドヘルド・コンピュータ「Tandy TRS-80 model M100」。10年以上も販売され続けて、世界中で600万台を売り上げるメガヒットとなった。

NECはタッチキーと半導体メモリーを追加し、オリベッティはデザインを完全にオリジナルに変えた。これを社風というのだなと興味深かった。

 なかでも印象的だったのはオリベッティだ。

 この会社とは、ビジネスの打ち合わせを通じて、いろいろなことを学ばせてもらった。オリベッティは、デザインということが考え方の中心にいつもある会社だった。本社のある、北イタリアのイブレアという町そのものをデザインしていたという「奇跡の会社」である。

 のちに、コーポレート・アイデンティティ(CI)ということがさかんに言われるようになったが、

チャンスを掴む人が意識している「予定された偶然」とは?京セラとともにつくったハンドヘルド・コンピュータ「NEC PC8201」。

そのずっと前からCIを実践していたのだ。「こんな会社もあるんか!」と感銘を受けた。パソコンの登場により経営が悪化し、いまはテレコム・イタリアの傘下に入ってしまったのが、僕には残念でならない。

「空気の泡」でプレゼンテーションをした

 こうして、京セラが開発したハンドヘルド・コンピュータは、1983年に、タンディ、NEC、オリベッティから発売になった。

 どれも大ヒットしたが、中でも、タンディの「M100」は、10年以上も販売され続けて、世界中で

チャンスを掴む人が意識している「予定された偶然」とは?京セラとともにつくったハンドヘルド・コンピュータ「Olivetti M10」。

600万台を売り上げるメガ・ヒットとなった。そして、世界的に見ると、このヒットによってハンドヘルド・コンピュータの歴史は始まったと言っていいだろう。

 これは嬉しかった。

 なかでも、ジャーナリストに愛された。テレビなんかでアメリカのジャーナリストが「M100」を使っているのを見るたびに、「エンジニア冥利」に尽きると思ったものだ。もちろん僕だけの力でできたことではないけれど……。でも、自分がパソコンの歴史の開拓者のひとりであることに誇りを感じたのは事実だ。

 ただ、僕は「もっとできる」と思った。

 3社ともに、ハンドヘルド・コンピュータが売れたので、「次はどうしよう?」という話になったとき、僕は、「ハードの厚みを半分にして、液晶表示をもっと細かくしよう」と提案した。特にこだわったのは「厚さ」だった。

 タンディへのプレゼンでは、もっと薄くできることを証明するために、「M100」を水につけて、出てきた空気の泡の体積を測った。空気の泡が出てくるということは、そこに空間があるということ。その空間を詰めていけば、薄さは半分にできることを実証したのだ。

 だけど、僕の提案は採用されなかった。そして、タンディは、独自に後継機種「M200」を開発することになる。残念だった。

チャンスを掴む人が意識している「予定された偶然」とは?西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo