僕の答えは、「IBMのデスクトップ・パソコンと互換性のあるポータブル・コンピュータ」だった。これは当然のことだ。僕自身がそうだったが、ポータブル・コンピュータのユーザーは、“親機”としてデスクトップ・パソコンをもっており、その“親機”とデータを共有している。そして、世界中のメーカーが、IBMのデスクトップ・パソコンと互換性のある製品を販売しているのだから、ポータブル・パソコンを普及させるには、IBMとの互換性は必須の条件だった。
そして、IBMのマシンには、マイクロソフトのMS-DOSが採用されていたのだから、僕は、画期的なポータブル・パソコンを世界に送り出すことができるポジションにいたのだ。
問題は、ディスプレイだった。
当時のデスクトップ・パソコンのディスプレイは、ブラウン管を使って大きな画面を実現していたが、ポータブル・パソコンでブラウン管は使えない。そんなでかいもん、持ち運べないからね。だから、僕は京セラをはじめとする日本メーカーとともに、液晶画面を少しでも大きくできるように努力をしてきた。
しかし、小さな平面のハンドヘルド・コンピュータに大きな表示画面を埋め込むことはできないし、そもそも、当時は、大きな液晶画面をつくる技術が確立されていなかった。だから、僕は「大きな液晶画面がほしい」といろんなところで話していた。
そんなある日、「液晶工場を見に来ないか?」とお声がかかった。
鳥取県にある鳥取三洋電機(現・三洋テクノソリューションズ鳥取)だった。早速、僕は飛んでいって、液晶のラインを見せてもらった。そうすると、それまで見たこともないくらいの大きな液晶を作っていた。すごいと思った。
それで、僕は、「もっと大きな液晶を作ることはできますか?」と聞いたら、「注文さえあればね」とおっしゃる。だから、その場で決めた。「じゃ、僕が注文します」と言って、「640×400」の液晶ディスプレイを作ってもらうことにした。ただ、液晶画面だけでは動かない。その足で浜松のヤマハを訪ねて、液晶コントローラーをお願いした。
こうして世界初の「ノート・パソコン」は生まれた
これで、ポータブル・パソコンのカギとなる部品が揃ったことになる。
完成品のイメージはすぐに浮かんだ。平面だったハンドヘルド・コンピュータを大きくして、二つに折る。そして、開いたときに手前に来る平面にキーボードを配置し、もう一方の平面にディスプレイを表示する。つまり、現在の「ノート・パソコン」の形態だ。製造は鳥取三洋電機が引き受けてくれた。
どう売るか?