大野耐一に挑んだ編集者の執念
実はダイヤモンド社には、深慮遠謀なる戦略があった。ピーター・F・ドラッカーが世界に問うた『断絶の時代』(1968年)の日本発行を大成功させた編集者に閃いたのは、「かんばん方式は『ジャパニーズ・マネジメント』の代表選手になり得る」だった。アメリカン・マネジメントに強いダイヤモンド社には、それに対抗できる日本オリジナルの経営書がなかった。
編集チームは「大野耐一」と「かんばん方式」を集中的に研究した。「かんばん」とはいかにも野暮ったいが、気宇広大にして地を這うような大野耐一の思想と行動にショックを受けた。「これは是が非でも物にしなければならない」
それにしても「かんばん方式」の完成に全精力を注いでいるリーダーみずからの意図を汲み取り、それを書物にする手はずを整えた編集者の執念には感服する。それを可能にしたのは編集者と経営者(トヨタ取材歴の長い記者出身者)が一丸となって、広報部を超え大野耐一に直接交渉したことだった。
「敵に塩を送るとはけしからん」とトヨタ内部に大野批判はあったが、業種を超え国境を超えて教える立場となったトヨタの責任は重く、プライドは高まった。大野耐一が『トヨタ生産方式』を世に問うた決断は歴史的英断だ。
大野耐一「どうぞご自由にお使いください」(1978年)
大野耐一著『トヨタ生産方式』の発売は、いち早く世界の「オープンソース」として、「どうぞご自由にお使いください」と公開したことを意味した。その結果、「トヨタ生産方式」は「ジャスト・イン・タイム・システム」(英語)として世界に普及し、根づいていく。「オープン」にして広く「分散」する大野耐一の思想は「21世紀ものづくり思想」として花開いている。
それにしても大野耐一は現場のリーダーとして、「トヨタ生産方式」という壮大にして細密な「経済システム」(生産システムを超えて)を、なぜ構築できたのだろう。
ある時、豊田喜一郎の話をしていて大野は、「喜一郎氏がいなかったら、“かんばん方式”は生まれていなかった」と言い切った。確かに、「自動車を“ジャスト・イン・タイム”に造ってみよ」と豊田英二(1913年生まれ)に投げかけたこのビジョンがなかったら、今の「トヨタ生産方式」はない。その豊田英二こそ終始、トヨタにおける大野の上司であり、現場における「かんばん」構築は大野に任せた。二人は深い「沈黙の絆」で結ばれていた。大野の言葉が、その意味を暗示する。
「上司が心配をしてくれているのは、実感としてわかった。ストップをかけようとしたこともあったに違いない。しかし、『こうしろ、ああしろ』とは一言もなかった。私も『こうやりたい』と言わずに、当然のこととしてやった。上司にOKをもらってやると、こちらの覚悟が薄れる。気持ちが楽になってしまうから。どちらが言葉を発しても崩れたと思う」
「沈黙の絆」は「信頼の絆」だった。豊田喜一郎がいち早く提示した明確なビジョンを分かち合うことで、もはや言葉は必要なかった。