日本の製造業は革新的な着想や製品開発で定評を得ており、西洋が注目している品質やジャストインタイム、ムダや欠陥の削減、かんばん方式といった概念はすべて日本のメーカーが生みの親である。

 大野耐一は、今や多くの企業が模倣する有名なトヨタ生産方式誕生に至る働きをし、考え方の多くを生み出した人物である。

 彼は最終的にはトヨタ自動車の副社長にまで登りつめるが、彼の初期の成果のほとんどは、さまざまな加工現場の責任者だった時代のものだった。

人生と業績

 トヨタ生産方式の歴史は、豊田佐吉が1918年に設立した豊田工機(後の豊田紡織)にまでさかのぼる。佐吉は最初から、主たる競争相手はイギリスにいると考えていた。グローバル競争の考え方のさきがけである。この会社は1929年頃には、糸の切断といった品質上の問題があれば自動的に停止する画期的な織機で名を馳せていた。イギリスのプラット社がこの自動織機の生産および販売権を10万ポンドで買収したが、この取引は予想をはるかに超える結果をもたらすことになる。この金は、会社を拡張し自動車技術を開発するようにと佐吉の息子喜一郎に託された。1936年にトヨダAA型乗用車が発表され、その1年後トヨタ自動車工業が設立された。

 喜一郎は自分の会社に最適なインフラのあり方を求めてさまざまな場所に足を運び、デトロイトから多くのことを学んだ。フォードの組立ラインシステムは喜一郎の初期の自動車生産の基盤となったが、彼はそれを日本特有の市場に適合させることが必要だと考えた。トヨタは国内市場向けだけに自動車を生産しており、それは多種少量での供給を意味していた。これは、フォードの「黒であれば何でもお好きな色」式の大量生産とは対照的だった。資金が限られていたため、トヨタは必要な設備投資のために供給業者と協力するほかなかった。

 このような状況下で大野耐一はトヨタ自動車工業に転籍になり、最初の任務の1つはフォードより1桁劣るこの日本企業の生産性を向上することだった。第2次大戦後、喜一郎は会社に「3年でアメリカに追いつけ」という命令を下した。