「留学生10万人計画」で転機を迎えた外国人事情
ここで、「日本社会と留学生」の関係を簡単に振り返りたいと思う。
今日では、例えば都心のコンビニエンスストアや居酒屋において、留学生と思われる外国人が働いているが、当時は、彼らがここまで「日常」に入り込んでいる状況になかったことは間違いない。そんな状況が構築され始める転換点の一つとして、中曽根首相が1983年に示した「留学生受け入れ10万人計画」が挙げられるだろう。
この頃から、入国管理局による留学生の出入国に関する方針が徐々に変化し、一方では、天安門事件やソ連崩壊・冷戦崩壊に象徴されるような国際秩序の変化、他方には、現在「新興国」と呼ばれる国々の経済成長があり、人の流動性が高まっていった。それ以降、不可逆的ともいえる留学生の増加傾向が今日まで続いている。
中国に話を絞れば、1980年代後半から90年代初頭は、上海や北京、広州といった経済的にゆとりのある地域からの留学生が多かったとされる。とくに歌舞伎町など、日本の巨大繁華街では、最大勢力である上海出身者系のグループと北京出身者系グループとの対立・抗争が先鋭化し、有名な「青龍刀事件」なども発生している。
その一方で、正規の就学生や留学生のほかに、「蛇頭」と呼ばれる、違法組織の手引きで密入国する者が増えていることも新聞・テレビなどで報じられるようになっていった。今も多数存在するが、新宿の区役所通りに「中国パブ」が林立するようになったのもこの頃である。
そして、1990年代後半から2000年代になると、中国からの留学生の中で、相対的に貧しい東北地方などを出身地とする就学生、留学生の存在感も大きくなっていった。チェ・ホアの来日もこうしたムーブメントの中にあった。
池袋の「富士そば」ですすった思い出のたぬきそば
2002年の春、日本にやってきたチェ・ホアは、前述のとおり、就学生として新大久保にある日本語学校に入学した。1年3ヵ月コースで、入学金や授業料等の総額は約100万円。住居については、同郷の友人が住む板橋のアパートにとりあえず居候した。
はじめて来日した日のことを、彼女はこう振り返る。
「言葉の不安はなかったけど、やっぱりはじめての海外、すごく緊張してましたね。成田に着いて、バスに乗ったんですが、周りに何もなくて驚きました。『え?これが日本なの』って。緊張のあまり、前の晩から何も食べてなかったんです。機内食もほとんど喉を通らなくて。でも、バスに乗ったら安心したのか、急にお腹が空いちゃって。お腹がぐーぐー鳴って恥ずかしかったのを覚えてます」
池袋駅の近くでバスを降り、とにかく食事をしようと、大きなスーツケースを引きずりながら街をさまよった。
「右も左もわからないから、怖かった。当時、ガングロでしたっけ?真っ黒な顔をして茶髪とか金髪に髪を染めた女子高生がいっぱいいて、びっくりしたのを覚えてますね。私は池袋の東口周辺を、とにかく安そうな食堂を探して歩き回りました。300万円の蓄えはあったけど、日本語学校の授業料があるし、落ち着いたら部屋も借りなくちゃいけない。お金の問題が一番心配でした」
街を歩くと、客引きの中国人女性が道行く人々に声をかけている。すでに来日していた友人から話としては聞いたが、これほど多くの中国人が東京の繁華街で働いているのか、と驚きもした。
「三越デパートの裏あたりを歩いていたら、ショーウィンドウに麺類の見本を飾ったお店に目が止まりました。『富士そば』です。『富士山の富士かぁ』。そんなことをふと思いました。値段を見ると、300円とか400円とかすごく安い。東京の物価の高さは聞いていたので、こういう店もあるんだと安心しました。私は、たぬきそばを食べました。日本のそばを食べたのはこれがはじめてです。醤油の味が濃くて、私の口にすごく合いました。空腹だったし、まだ肌寒い時期だったので、すごくおいしく感じました。今でも、富士そばを見かけるたびに来日した当時の緊張した気分を思い出しますね」
「学校に通うようになっても、外食といえば吉野家とか松屋、マクドナルド、立ち食いそば屋みたいな安いお店ばかりでした。吉野家の牛丼はやっぱりおいしい。中国人の間でも大人気です。あとはホカ弁かコンビニのおにぎり。私は料理はあまり好きじゃないので、基本的に家ではあまり作りませんでした」
そして、事前に入学を決めていた日本語学校に通い始めることになる。
「やっぱり、日本語の基礎はある程度中国で勉強してきたので、授業は退屈でしたね。それよりも、すぐに始めたアルバイトに精を出しました。普通の居酒屋で時給850円。夕方6時から12時まで。ホールの仕事です。休みは日曜日だけでした。日本人の従業員も優しくて、居心地は悪くなかったんです。でも、私はもっと稼ぎたかった」