反韓流を掲げたフジテレビデモや紫陽花革命と称される脱原発デモ、さらには、生活保護バッシングを批判する新聞意見広告。いずれも、インターネットを効果的に活用して実現したと言われている。もちろん、インターネットメディアの発達だけが要因ではないはずだが、ここ数年、かつては不可能だった「普通の市民」による社会運動が実現し、話題になることが増えてきた。それでは、ここで指す「普通の市民」とは、いかに定義されるものなのか。
そもそも、そのような不思議な表現がされる背景には、かつての社会運動が「普通『ではない』市民」のものであった歴史がある。特定政党の関係者、市民運動家、学生運動や労働組合……いつしか彼らが「耳目を集める社会運動」の主要な担い手となり、その一部はテロや内ゲバをいとわない「過激派」「極左暴力集団」となった。そして「社会運動」への世間のイメージはある側面に偏ったものとなり、「普通の市民」から忌み嫌われる存在となってもいった。
社会学者・開沼博は、公安警察が24時間体制の厳重監視を行う「過激派」Aの活動拠点に潜入した。鉄製の入り口をくぐった先に目に飛び込んできたのは、「普通」としか表現できない日常生活。「普通の市民」と「普通の市民ではない」活動家を隔てるものは何か。恣意的に引かれたその補助線の先に、私たちは何を見つけ、何を見失っているのか。
今も「暴力革命」を目指す彼ら「過激派」が描く未来、進む先。最盛期を知らない20代の若者も参加する社会運動の現在から見えてきたものとは。タブーに挑んだ渾身のルポ。連載は全15回。隔週火曜日に更新。

薄っぺらくて“アツい”「革命」の時代に

「ゲンパツイラナイ」「ゲンパツイラナイ」……。

 先導する女性の声に呼応して響くシュプレヒコール。そこにいる人々の表情は、「暗かったり」「重々しかったり」……とは程遠い。笑顔を浮かべる若者も年長者も、男女問わず、それぞれが自由に声をあげて体を動かす。しかし、その一群の姿からは、他の参加者とは違う、どこか“慣れた”様子が感じられる。

 日本の脱原発デモはもちろん、ジャスミン革命、オキュパイ・ウォールストリート、中国の反日デモなど、近年、世界的に「これまでとは違った形での社会運動」の盛り上がりが伝えられ続けている。

 55年体制下には確かに存在した、保守と革新、右翼と左翼、体制と反体制、といったイデオロギー対立。そして、そのもとで行われる社会運動は、少なくとも日本においては、いつの間にか「古い」「一部の特殊な人だけが参加するもの」として社会の片隅に置かれ、大衆的な支持を失っていった。

 いや、支持を失うだけならまだよかったが、むしろ、インターネット上では「プロ市民」などと揶揄されるような、忌避・嫌悪の対象にすらなっていった。かつての“アツさ”に比べれば、ここ20年ほどは、社会運動にとって「冬の時代」だったとも言えるであろう。

 しかし、その「冬の時代」を経て、かつて社会運動に対して存在した実体験に基づく「アレルギー反応」はいくぶん弱まっているようにも見える。その理由を(「一部の特殊な人」ではなく)「普通の市民」が、(「古いもの」ではなく)「新しい手法や言葉、集い方」を感じさせる工夫をしているからだと見る者もいるが、それが事実かどうかはわからない。