なぜ政府は東京五輪開催に強い意志を持つのか

 感情的に「反対!」を叫ぶ声と、対照的に「実施」に向けて動き続ける政府や東京都が対立し合うだけで、融合する機会を持たず平行線の状況は、単にオリンピックの問題に限らない。ここ数年の日本社会を象徴しているように感じる。モリカケ問題をはじめとする数々の疑惑について、為政者側はまったく誠実な説明や対応をしない。これを糾弾する国民の声が勢いを増しても無視され、状況は変わらない。

 こうした構造と同じ乖離が、東京オリンピック開催についても起こっている。だからこそ、不毛な分断を止め、国民の思いが健全に醸成され、共感を導ける社会に変えるためにも、オリンピックの議論は重要だ。

 なぜ政府はそれほどまで東京オリンピック開催に強い意志を持ち続けるのか?納得のいくメッセージが政府から国民には届いていない。だから国民そしてメディアは、「きっとお金のためだ」「やめられない事情があって、やめれば自分たちの首を絞めるような事態になるのではないか」などと邪推する。それはあながち的外れではないかもしれないが、私はスポーツライターとして、「スポーツの不在」を強く憂い、それを問いかけたい。

スポーツのための東京五輪ではなかった

 昨年3月、IOCのバッハ会長と安倍首相(当時)の電話会談で突然「延期」が決まったが、その席に、スポーツ界を代表して立ち会うべきJOC(日本オリンピック委員会)の山下泰裕会長がいなかった。それは大きなショックだった。今回の東京オリンピックが、完全に政府主導で行われ、スポーツ界の主体性など存在しない現実があらわになったのだ。そのことには私も大きな失望と不満を感じている。

 つまり、東京五輪は、スポーツのため、スポーツ界が主体性を持って招致したものではなかった。政財界や一部の権力者の思惑のため利用された側面が大きい。それは否定できない。だが、だからといって、コロナ禍に乗じて「やめちまえ」と叫ぶのもまたスポーツを度外視した、行き過ぎた飛躍ではないだろうか。