大河ドラマ「麒麟がくる」も2月7日(日)の最終回に向けていよいよラストスパート! そこで今回は、「麒麟がくる」の時代考証を担当している小和田哲男静岡大学名誉教授が、出会った頃は相思相愛だった光秀と信長の関係が、なぜ破綻したのか、ズバリ読み解いた。『歴史道 Vol.13』(週刊朝日MOOK)より特別に紹介する。

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「信長流人材登用術」にマッチした光秀

明智光秀信長の命令には、たとえ理不尽と感じても忠実に実行した明智光秀。その「真面目さ」は「応用力のなさ」と裏腹の関係ともいえる。「太平記英勇傳」より、都立中央図書館特別文個室所蔵 拡大画像表示

 本能寺の変(天正10年、1582)、明智光秀謀反の真相を語るとき、落とすことができないのが、明智光秀と織田信長の性格や考え方の違いである。そこで、まず、光秀と信長、この二人の人格、思想、行動のそれぞれの違いについてみておきたい。

 光秀に関しては残された史料は少ないが、豊臣秀吉との比較で興味深い指摘がなされている。江村専斎の著わした『老人雑話』で、そこに次のような記述がみえる。

“筑前守は信長の手の者の様にて、其上磊落(らいらく)の気質なれば、人に対して辞常にをこれり。明智は外様のやうにて、其上謹厚(きんこう)の人なれば、詞常に慇懃(いんぎん)なり。”

 筑前守とは秀吉のことで、「手の者の様にて」とあるように、「秘蔵っ子」といった印象があり、信長からかわいがられ、豪放磊落・傲慢だったという。「をこれり」は「驕れり」であろう。それに対し、光秀は外様だったため、謹厳実直で言葉も慇懃だったとしている。

 秀吉も光秀も織田家臣団の譜代ではない。今でいう「中途入社組」ではあるが、秀吉は信長と同じ尾張出身で、小者から立身出世を遂げたいわば生え抜きであったのに対し、光秀は美濃出身で、牢人したのち越前朝倉義景に仕え、義景のところに転がりこんできた足利義昭を信長に斡旋したことからつながりが生まれ、はじめ、義昭と信長に「両属」という形だったというハンデがあった。

 光秀は織田家臣団の中では、まさに外様で、謹厳実直といった態度を取らざるをえなかったのである。真面目に奉公を続けることで、信長に認められていった。

 では、その信長はどうだったのだろうか。信長の人格、思想、行動をみていく上で注目されるのがイエズス会宣教師ルイス・フロイスの信長評である。フロイスの著わした『日本史』に、「彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」とあるのに続けて、つぎのようにみえる。